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哲学とは何か?~哲学とは形而上学である

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私は哲学入門書を書いている人間なので「そもそも哲学って何ですか?」と聞かれることが多い。そのときは、その場に合わせてだいたい3パターンで回答している。それらの回答を聞くことで、「哲学がおおよそどんなものか」がわかるかもしれない。が、それについて語る前に、まずは哲学の「辞書的な意味」を提示しておこう。

■哲学という言葉の「辞書的な意味」

哲学の説明として、辞書では次のように書かれている。

①世界や人生の根本原理(本質)を理性的に追求する学問
②経験などから作りあげた人生観・世界観

①は、一般的な哲学のイメージに近いと思う。ようするに、「愛の本質とは何か」「人生の本質とは何か」といった形で、「〇〇とはどういうものか?○○が成立するために一番大事なもの(本質)は何なのか?」を理性的に突き詰めていく感じだ。
つまり、
Aさん「幸福とは何かについて考えてみたんだけどさ、つまるところ、幸福の本質って『人に愛されること』じゃなくて、『人を愛すること』だと思うんだわ」
Bさん「お~深いわ~、哲学してるね~」
みたいな感じ。

②は、より通俗的な哲学のイメージだろう。ようするに、「俺の経験上、正しいと思う考え方」のことで、「人生哲学」「成功哲学」という単語でビジネス本などでよく見かけるやつのことだ。
つまり、
Aさん「できないことはやらない。できるやつに任せる。下手な考え休むに似たり、タイムイズマネーってやつさ」
Bさん「さすが社長、それがあなたの哲学なんですね~」
みたいな感じ。

上記のふたつが「辞書的な意味で、かつ、一般的な意味での哲学とは何か?」の答えである。日常会話において「哲学」という言葉は、これらの意味で使うと(他人に通じやすいので)間違いないだろう。

さて、ここまでは前置きで、私の回答を並べよう。

■哲学の定義1:哲学とは「知を愛すること」である

哲学は、英語で言うと「フィロソフィー(philosophy)」である。
これは「フィロ(愛)+ソフィー(知)」という言葉から出来ており、したがって、「哲学とは知を愛することである」と説明することができる。語源にさかのぼって回答しているため説得力もあるし、なによりカッコいい回答である。
哲学が何かって? 知を愛することさ

ただ問題は「知を愛するってどういう意味ですか?」と聞かれてしまうことだ。この場合、適当に、「ほら、考えるのって楽しいだろう?人生について考えたり、愛について考えたり……そういう知的な営みを楽しむ……愛するってことだよ」と言っておけばいい。

ただ問題は「でも、大元の語源である、古代ギリシアにおける『知』って、日常的な『考えること』とはちょっと意味が違いますよね?2500年前の世界において、当時の人々が『知』という言葉をどのように捉えていたか、まずは学術的な論文を読んできちんと把握しないと、『知を愛する』の正確な意味はわからないんじゃないですか?」とツッコミを受けることだ。この場合は、「すみませんでした、その通りです、選択を間違えました」と素直に謝ろう。

結論として「哲学とは『知を愛すること』です!」は、ツッコミを受ける心配がないときにだけ使おう。相手が長い説明を聞きたくなくて、「へー、そうなんですねー」と一言で済ませて次の話題に行くような、ゆるい雰囲気の場合には、この説明を採用すると良い。

■哲学の定義2:哲学とは「形而上学」である

哲学のもうひとつの呼び方として、「メタフィジックス(metaphysics)」がある。これは、「メタ(上位)+フィジックス(物質)」という言葉から出来ており、したがって、「哲学とは物質の上位を考える学問(形而上学)である」と説明することができる。ここで言う物質とは、単純に「見たり触れたりできるモノ」のことであり、ようするに、机とか、椅子とか、そういうカチコチの「モノ」のこと。そういった「見たり触れたりできるモノ」を超えた上位の存在について考えるのが哲学である、というのが二つ目の定義だ。

具体例としては「正義」。これは明らかに見たり触れたりできないわけで、つまり、モノを超えた存在だと言える。したがって、「(モノを超えた存在である)正義について考えること」は、定義上、哲学だと言えるのである。

さてさて、これが哲学の定義だとすると、ものすごく範囲が広く感じられるかもしれない。仮に、目の前にある、見たり触れたりできるモノ(物質)について考えることを「科学」と呼ぶなら、それ(物質)以外の考えることはすべて「哲学」ということになってしまう。

が、私としては、その通りだと言いたい。そもそも世界には、大きく分けるなら二種類の学問しかない。
①「形而上学」=哲学
②「形而下学」
形而下とは「日常で見たり触れたりできる物質的な世界」のことである。形而下学がそれらを探求する学問であるなら、その反対――形而上学はもちろん、それらを超えたものを探求する学問である。そして、哲学とは、まさにこの形而上学(形而下を超えたものを扱う学問)なのである。

では、なぜ形而上学(哲学)があるのだろうか?
別に、形而下学(見たり触れたりできる現実の世界を探求する学問)だけあればいいではないか?

いやいや、それではダメだ。だって想像してみてほしい。もし、形而下学が示すとおり、「宇宙が、ただ規則的に粒子が転がってるだけの機械仕掛けの空間」にすぎないのだとしたら……これほど虚しいことはないだろう。それが世界のすべてであり真の姿なのだとしたら、我々は「無意味にギコギコ動く、巨大な機械の歯車のひとつ」にすぎないわけで、いつか壊れてバラバラになって消滅する、それだけの存在ということになってしまう。

だとしたら、環境を汚染しようが、不正をしようが、暴力をふるおうが、それこそ「地球破壊爆弾のスイッチ」を押そうが「どーでもいい」ではないか。
(実際そうだろう。仮に宇宙がビリヤードの台のように、ただ原子というボールが規則的に転がっているだけの空間にすぎないのだとしたら……。地球も、人間も、ただのボールの塊であり、それらをどう動かそうが、それこそ台から取り除いたとしても、どーでもいいだろう。だって「ただのボールの塊」なんだから)

だから、見つけなくてはならない。
意味を、価値を、美を、正義を、尊厳を。
物質を超えた何かを。
もちろん、私たちはどうしようもなく物質世界に生きている。捕らわれていると言ってもいい。だから、そこから抜け出す方法――「ボールが転がってるだけの宇宙を超えた別世界を見つけ出す方法」を探さなくてはならない。そしてそれを願うなら……、あなたはもう哲学するしかない!

それが、哲学の役目であり、哲学の存在意義であり、哲学の定義なのだ。

だからこそ、昔から識者たちは、「哲学とは形而上学(メタフィジックス)である」と、しばしば言ってきたのである。つまり、哲学とは、この世界への反逆であり、革命の学問なのだ。

長くなったので、三番目の定義はまた次回に

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