「鳥獣戯画」とドストエフスキー
日本最古のマンガともいわれる「鳥獣戯画」。
蛙、うさぎ、猿が、歩き、踊る、笑っている。
生きとし生けるものが人と同じように生きているという視点。
山川草木悉皆成仏的視点。
それは現代人が最も求めている思想と言える。
現在陶芸の森では現代陶芸作家による「Human and Animal」展(※1)が行われている。館では近年リサラーソンのユニークな動物作品も好評を博した。動物たちの愛らしい姿。
ところが、現代人は経済の繁栄を目指し、生命の価値にまで値段をつけている。 岡本太郎氏はかつて、「このままでは人間は機械の奴隷になってしまう」という強烈なメッセージを発した。これは人間性の奪還のための必死な叫びだった。現在生誕110年、信楽名誉町民50年に際し彼の展覧会が行わている(※2)。
氏が逝去して約25年の今「機械」ならぬ「スマホ」に依存して欲望の虜になっている人間がどれだけ増えただろう。 グローバル経済社会の数値上の幸福を目指すシステムの一人歩きは、歯止めが効かず、生命が市場操作のターゲットとなった。人間の行為に起因する自然災害は自身の生存を脅かし始めている。
今年生誕200年になるドストエフスキーは「美が世界を救う」と作品に記した。今、この言葉が私たちに強いインパクトを持って迫りつつある。
この言葉は小説「白痴」で、ムイシュキン侯爵の誕生日の酒席に修道僧のカニバリズム等の大変深刻な話題の後に、居眠りから覚めたイッポリートが侯爵から聞いた言葉として発せられる。彼は「美が世界を救う」は侯爵が恋をしているから言った「遊戯的」言葉だとしたが、この言葉の持つ意味はそんな脳天気なものでは無い。それは当時の伝統的精神性を失いつつあるロシアに蔓延ったニヒリズム、拝金主義、病んだ精神、凶悪犯罪を潜在させているのである。そして、爆発的勢いで拡大した鉄道網に代表されるロシア近代化。作家はそれを嫌っていたが、この問題は現代のグローバル社会にも形を変え我々の前に立ちはだかっている。
作家を悩ました「権力」と「知識人」と「民衆」の三者の対立から人類はどのように逃れることができるのか。彼は「真の文化」こそが、この三つ巴を解決する鍵であり、「青年と民衆の精神的融合ほど崇高なものはない」とした。「文化」の重要な一翼が芸術であり、その一翼が美術である。ならば「美が世界を救う」という言葉も具体性を持ってくる。
彼は最高傑作ともいわれる「カラマーゾフの兄弟」の続編を書く構想をいだいたままこの世を去った。ロシア文学者亀山郁夫氏はこの続編の主役として後年のアリョーシャを空想した(※3)。これは大変リアリティーがあり興味深い話であった。そして、私は今のパンデミックに、もしアリョーシャが出現したら、①プロとコントラを両立する精神活動、②持続可能型農業、③何らかの芸術活動、の3つを行う可能性が高いと考える。
「鳥獣戯画」のユーモラスな生きとし生けるものへむけられる優しいまなざし。
この視座は「Human and Animal」の視点と類似する。 岡本太郎氏は「太陽の塔」の裏側のレリーフ「黒い太陽」を信楽の陶板で創った。氏が縄文土器の美的再発見をした事は知られているが、この広義のアニミズムこそ生きとし生けるものに対する思想的根幹とも言える。 また「白痴」のレーベジェフの弁舌はシビアであるが、この酒席では笑いが絶えない。作家はこのような道化を演じる人物に精神性を失った社会へ対する痛烈な批判を代弁させたに違いない。
このように考えてくると「現代陶芸」と「鳥獣戯画」は一つのベクトルをなしてくる。そのベクトルの先にあるものとはすなわち世界平和である。 それはボーダレスな精神性を中心にした「真の文化」によって「笑い」と共になされるに相違ない。
私たちは世界の平和という一見高尚で、また一方ステレオタイプのように言われ続けてきた目的をいだきつつも、地域の人々と仲良く文化的日常を楽しんで普通に生活してゆくこともできるのである。 そのような地道な日常にこそ「美は世界を救う」という言葉の真の実践があると私は信じている。
※1
https://www.sccp.jp/exhibitions/14359/
※2
https://www.biwako-visitors.jp/event/detail/29000/
※3
https://www4.nhk.or.jp/P1929/x/2021-09-30/06/71438/3656065/
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