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昔話ばかりで悪かったね
◆麦と私
昔「貧乏人は麦を食え」という意味のことを、国会で発言した大臣がいた。大問題になった。それくらい、ある時期、麦飯は貧しさの象徴だった。
筆者は一九五一年(昭和二六)一一月某日、母が実家の麦蒔きを手伝いに行っていた折に、産気づいたと聞いた。いわば、麦の落とし子であるが、押し麦は別として、丸麦を食べた記憶がない。
ある年輩男性は
「丸麦でもあればいい方でした。おかずはなくても、お茶をかけて(胃袋に)流し込みましたよ」
と語っていた。戦時中の生まれだった。欠食児童のリアルな証言である。
◆貧しいけど豊か
筆者の生家は林業との兼業農家だった。
田んぼもあったので、米も食べた。ただ、山の斜面に開墾した棚田であり、苦労の割に収穫は多くなさそうだった。
畑では野菜類のほか、麦や陸稲、蕎麦、トウモロコシ、唐黍、粟、小豆、大豆などの穀物類も栽培していた。畑も傾斜地に拓かれ、絶えず専用の鍬で土を掻きあげる必要があった。傾斜地農法は重労働を伴うものだった。
他方で、ほとんど手のかからないものもあった。果実類だ。家の周囲に柿やビワ、梨、桃、ミカンなどが植えられ、貴重な糖分の補給源となっていた。
現金収入を得るために、多くの家で葉タバコを栽培して、炭を焼き、牛を飼っていた。和紙の原料となる楮や三椏を栽培する農家もあった。
牛は農耕にも使われ、放し飼いされた鶏とともに、お馴染みの農村風景だった。
◆何でも自前
生活に必要なものは自前で調達していた。
味噌や醤油は自家製だった。シーズンになると、甘酒も作られた。これらは「味噌部屋」と呼ばれた、専用の暗い部屋に保存されていた。また、サツマイモを入れておくための芋ツボが掘られていた。保存技術が発達し、切り干し芋、切り干し大根、干し柿なども、飢饉に備えた先人の知恵をしのばせた。
盆正月、お祭りなどの紋日が近づくと、うどんや蕎麦を打ち、餅をついた。メインのちらし寿司、赤飯もまた家庭ごとに微妙に味が違った。
家によっては、酒も自前だった。ご禁制のドブロクである。
「裏山に隠しておいたら、誰かに盗まれた」
と、思い出し笑いしていた高齢女性もいた。こればかりは、訴える先がない。
生家には、奇妙なブリキ製の缶や筒があった。それは『オズの魔法使い』(The Wonderful Wizard of Oz ライマン・フランク・ボーム著 一九〇〇)に出てくるブリキの木こりを連想させた。持ち出して庭で遊んでいると、父が血相を変えて追いかけてきた。それでドブロクを造っていたことを、後に知った。
◆尊重された相互扶助
当時、二一軒の民家があり、一五〇人前後が住んでいた。
人口構造は典型的なピラミッド型だった。食事時には、どの家でも囲炉裏端に子供がずらりと居並び、奥にお爺さん、あるいは親父さんがにらみを利かせていた。
村人は助け合った。
田植えには何軒かが「今日はお田植えで、おめでとうございます」と口上を述べ、応援に集まる。冗談を言い合いながらも、田んぼには見事に苗が植えられていった。
一日が終わると、子供たちまで夕食に招いて、ご馳走を振舞うのが習わしだった。
村に重病人でも出ようものなら、神社に集まり、回復を願ってお百度を踏んだ。死者は村中で、手厚く葬ったものだった。
◆夢よ再び
今は昔、思い出多い生家は廃屋となり、村は三軒を残すのみ。賑わいが絶えて久しい。
日本中で過疎化が進み、物価高とりわけ米や野菜を初めとする食品関係の価格高騰が生活を脅かす昨今、ふと夢想することがある。
もう一度、半自給自足経済を復活できないものか、と。
休耕田・休耕畑を再生するには時間を要する。村を覆う杉林を間伐し、人間を含めた多様な生命体を呼び戻すのも、長期戦になるだろう。
戦後の日本は工業化にぶれ過ぎていた。直面する危機は「農は国の本」であることを改めて教えている。