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中国アジアITライターを始めるまで
氷河期世代がバックパッカーとなり世界を旅し、世界中の安宿で日本人が一大勢力だった時代があった。電波少年とかのおかげだ。旅行マニュアルとして旅行人ノートとか地球の歩き方があった。
僕も大学生のときに自分も電波少年の影響で海外一人旅をしたいと思った無数の人々のうちのひとりだった。
旅行人ノート×チューヤン!!そうですね〜🥰
— PandaMiffy (@PandaMiffy) January 10, 2021
これらを見て旅した人が、日本人宿のノートや個人ブログで情報を厚くしていく…って感じでしたかねえ
この旅が、中国×ITという掛け算の思想へ発展されたのかしら https://t.co/BLDu5wrczZ
感想ありがとうございます。
さて、幸い、今「中国アジアITライター」を名乗り、雑誌で連載し、本を書き、執筆業だけで飯が食えている。どうしてなれたかを改めて書いてみる。
まずパソコンを大学1年=Windows95発売2年目のときから触っていて、よしなしごとを書いていた。シンプルなマイクロソフトのWindows純正ツール「FrontpageExpress」を使ってたと思う。
なんとなく時の流れで、情報系学科を専門にしたので、同級生にMS-DOSから利用している筋金入りのマニアがいた。また叔父が当時から自作パソコンマニアで、家にはパソコン雑誌が積んであったし、秋葉原のパソコンショップに連れていってくれた。
大学生の夏休みと春休みにはヨーロッパや南米など行ったが、旅行の時にはミニノート「Libretto」とデジカメを使って、デジカメで撮ってはパソコンにとりこみ、旅日記を書いていた。今となっては珍しくもなんともないが、これが珍しかった。
先日2001年にチベット自治区のラサに行った時の写真をアップしたところ、「私も行った」というRTを多くいただいたのだが、デジカメで撮った写真を持ってる人は少なさそうだった。
2001年チベット自治区ラサ。まだ監視カメラもネット規制も何もないころのラサ。
— 山谷剛史 新刊『中国のITは新型コロナウイルスにどのように反撃したのか?』 (@YamayaT) January 9, 2021
あのときは定番のバックパッカー宿で日本人が片手の指の数以上はいた。んで、そのうちの何人かが、来たはいいけど高山病で動けず何もせずに成都にいったんだっけ。 pic.twitter.com/zTHoOOu9F8
「写真付き日記をアップすること」が、今でいえば最新のSNSに全天球カメラやGoProで動画をアップするくらい新しいことだった。
SEになって2年目か。その写真付き日記が面白いと、出版社勤めのスペインの旅先で会った友人Aさんの友人Iさんが、2001年に「一緒に上海に行こう」と声をかけてくれて、当時会社員だった僕は有給を取ってその話に乗ってしまった。実際いろんなところに行って考えて写真を撮って原稿を書いて楽しかった。
その結果がこれ。インテリア・サブカル雑誌「Room+」でのデビューである。
僕のデビュー作(2001)をいただく pic.twitter.com/Tb7dGGehUN
— 山谷剛史 新刊『中国のITは新型コロナウイルスにどのように反撃したのか?』 (@YamayaT) April 13, 2018
裏方のSEより表で出していく仕事のほうが楽しいと安直に考えてしまって、ついでに「旅行しながら原稿を書いていきたい。情報系学科出身だし、パソコン雑誌で書きたいな」と、とんちんかんなことを思いつくのだ。何も未来を考えてない若者だった。
ところが運はあるもので、会社を辞めた後、上海旅行に引きずり込んだ友人Iさんにひっぱられて現代美術展に行ったときのこと。どこで何のテーマだったのか覚えてない。そこで雑誌向けにフィリピンやカンボジアなどのスラムを撮っている写真家のAさんと会う。
「山谷君?ライターの仕事は大変だけどずっとやってくの?」その質問に「やります!」と何も考えずに即答をしてしまった。「連載が撮れるネタを教えてあげるよ。これで編集部にかけあってごらん?」と言って、ネタを出してくれたのだ。Aさんにはそれ以降も師匠としていろいろ教えてもらった。
メディアも金があるもので、自作パソコンや薄型ノート、ミニノートなど話題が豊富で、広告によって電話帳のように厚くなったパソコン雑誌やパソコンニュースサイトに僕を雇う余力があった。
アメリカや台湾を紹介する記事はあっても、それ以外を紹介する記事はほぼ皆無だった。ちょっと毛色の変わった、海外をほっつき歩いて現地のパソコン事情をレポートするライターがいてもいいじゃないか、自作パソコンばかりの話だとつまらないし、と思う編集者がいたのだ。
すぐに連載が始まった。
中国から西へ西へと進んでいき、現地発の情報をちょろちょろと書いていった。全部で月5ページもなかったが、それでも当時はまだ日本は強く中国は弱くて、そのライフスタイルでもプラスになった。
今と違って、インターネットメディアは一般化しておらずSNSもなかったので陰険なツッコミもなく、牧歌的な世界だった。数ツイート程度の中身の今と比べれば薄くて酷い記事を書いたが、それでもないよりは遥かにましで、貴重なレポートとなっている。
当時反応を気にするとすればせいぜい「はてなブックマーク」のコメント程度だったが、そこでダメだしを見ながらダメ出しをうけまいと少しずつゆっくりと文章力と企画力を上げていった。誰も競合相手のいないブルーオーシャンだったからのびのびと試行錯誤してた。
・・・とここまでまとめると、
「学生の時の積み重ね」×「他人より早くメディアにアップ」×「運の要素」
「運の要素」=「人の出会い」 × 「雇う側の業界・企業の余力」 × 「ブルーオーシャンか今後伸びる市場か否か」
で、好きなことを継続していたら、なんとなくうまくいっちゃったのである。今、海外市場向けに動画で表現して売り込んでる若い人は、SNSで外野がうるさくなってることを除いて、この公式に当てはまってると思う。
それでも今の人は大変だと思う。いきなりハイレベルなものを求められるし、物価もそれほど安くない。それでも出会った人を有効に活用しながら、ツッコミの少ないブルーオーシャンで自分の得意分野を伸ばすことをお勧めします。