雪山を滑る上での女性の居場所
「女性は感受性が豊か」という感じやすさを雪山で活かす。
それがわたしの立ち位置、つまり居場所なんじゃないかと思っている。
面ツルの地形を求めてスノーボードをしている女性の人口は、男性に比べて圧倒的に少ない。
男女平等と叫ばれ早100年。
今どき男と女での雑な分け方はいかがなものかとお叱りを受けそうですが、ここでいう男女はカラダのつくりや機能、本能とか、そういったこと、つまり「元々構造的に違う」という意味で理解してほしい。
依って、いつものメンツは人生のステージ毎に変われど「男たちの中に女がひとりポツン」状態が基本スタイルなので、昔も今も仲間内で「何もかもがいちばん下手くそ」をずっと独走中。
これまでずっと男の人たちのマネをしてきたに過ぎないことを自覚している。
マネしたくても、マネする女性が私には居なかった。
それでも密かにスノーボードを通じて「女である自分」の足元を、わたしは一人孤独に掘りつづけてきた。
一緒に山へ行けるパートナーであれば話しは早いのだけれど、うちのダーリンにはダーリンの良さと趣味がある。
「○○ちゃん行っておいで」と優しい彼に家を送り出された後は、ひとりの人間としての闘いだ。
そうやって20年近くの時間をスノーボードに費やしていたら、山へ連れていってもらっているだけのお荷物状態から抜け出したくなるのは自然の流れだろう。
近ごろ女性だけで雪山に行きはじめ、改めて感じたことがある。
いざっていう時、わたしって非力すぎる。
頭脳戦の場合は経験でなんとかなるかもしれないけど、肉体的なリスクが大きい状況の時ほど男友達の存在はわたしを安心させてくれる。
男女間の埋められない差は確実に存在する。
面ツルを求め出してすぐの頃、男性スノーボーダーに「なにかあっても責任持てないし、女の人と滑るのは心配し過ぎて楽しめない」と言われたことがある。
その意味がわかります、今なら。
女だけでの山行スノーボードを計画する時は雪が良くて天気が崩れない風の無い日、そんな穏やかな一日をピンポイントで選ぶ。
休憩時のおしゃべりが止まらないので、行動時間にも相当な余裕を持つ。
おやつも気合いが入る。
ガスで視界がなくなったとしても、地形が頭に入っていて、落ち着いて帰れる自信がある春の山を選ぶ。
経験の浅さと非力さを、万全のリサーチでカバーするしかない。
それでも悲しきかな、毎日のようにそんな冒険を一緒に楽しんでくれる女の人はそうそう居ない。
基本スタイルよろしく相変わらず女ひとりポツン状態で雪山にいると「わたしの役割って何だろう?」「何ができるんだろう?」と思い悩むことがある。
この危険極まりない遊びで、男の人たちだけのノリみたいなのもあるだろうに、仲間に入れてくれて、女である私の意思を汲み取ろうとしてくれる皆んなに、どんなふうにしてこの恩を返せばいいだろう。
力持ちじゃないし、お金持ちじゃないし、見た目も弱そうだし、かわいげもないし、みんなの腹筋を震わせられるような話術もない。
唯一できることと言えば、誰よりもはやく野生動物を見つけることと、綺麗とか楽しいとか感動したとかの繊細な心理描写をウザがられないよう小出しにして、その場にぬる〜い微風を送り込むことだけ。
それでもハイタッチせずにはいられないような雪山での感動を分かち合うのに男も女もなく、男女で異なる感性が存在するとしても、そういう友情はあるんだと私は身を持って体験してきた。
スノーボードのきもちよさや愉快さを誰かと共に体感できるようになるまでには、なかなかの辛抱も必要だった。
上手くならない自分に嫌気がさして、どうでもよくなっちゃった時もあったけど、それを抜け出すと、ぐっとスノーボードが自由になった。
そこからまたもう一段上の暗黒時代を経て、またもうすこし上手に動けるようになる。
そんなことを海越え山越えやっていると、自分のスノーボードというものが見えてくる。
見えてくるじゃカッコ良すぎるか。
だってしょうがないじゃん、これが私のリアルだもん。という開き直りと言ったほうが近いかもしれない。
スノーボードをするには、暮らしにまつわることをクリアして家を出る、という努力も必須。
こんなにしてまで滑る意味があるのか…みたいな喧嘩も家族でしてきた。
自分でも「まったくその通りです」と反省する時もある。
「俺とスノーボードどっちが大事なんだよ」と昔の彼が吐きだした言葉も今なら回収できる気がする。
そうだ、女として捨てたものもある。
滑りはじめた当初は「おしゃれができるスノーボードたのしい」と思っていたけど、厳しい雪山では「おしゃれは我慢」なんて呑気なことも言ってられないので、メイクすることやファッション性などは諦めた。
眉毛なんてすぐ消えるし、髪の毛はすぐ凍るし、鼻水は出てるし、色味のせいで多少コーディネートに違和感を生じようと最適な道具を選ばないと。
歳を重ねるとすべからく上達の速度は遅くなっていくけれど、雪山あそびはそれが緩やかだ。
雪山では女ひとりポツン状態の60歳は過ぎているであろう同類の御婦人とすれ違うことも珍しくない。
自分のレベルに合った節度を保って、上手くなることを諦めなければ、加齢による山遊びのリスクは絶対なものではないのかもしれない。
自由なスタイルで、ある意味孤独に山を滑り続けてきた年上の女性に出逢うと、それだけでもう涙が出そうなほど感動する。
大変ですよね、怖かったですよね、よくやってきましたね、どうしてたんですか?、好きなんですね、友達になってください!と、そういったすべての女性と手を取り合いたくなる。
(実際やってしまっている)
ガツガツとパークを滑るスノーボードにも飽きちゃって、最近山に入り始めたような貴重な年下女子と出逢うと、もうかわいくてしょうがない。
聞かれれば何でも答えたいし、困っていれば助けてあげたい。
山ではどうしても年上の私が彼女たちのお手本になってしまう。
だから、なるべく正直に、カッコつけず、素直でいることを心掛ける。
滑り続けていると、今まで出逢うことのなかった人種、自由な考え方、そういうものが波のように押し寄せてくる。
大学を出て公務員になった田舎者で真面目で無知な私は、カルチャーショックをめちゃくちゃ受けた。
俗世のつまらない型に囚われていると、この波にはなかなか乗れない。
世間的にはスポーツ(競争)の一部にカウントされるスノーボード。
その道を通ってこなかったので詳しいことはわからないけれど、その世界を抜きにしても、大自然の中で、各々が何かを見つけ出そうとするこの遊びは、水の記憶が重なる雪面という自然の芸術に、自分のラインを一筆書きするという他にはない喜びをもっている。
その美しさや、静けさ、光、畏怖、難しさ、そういうものを知っているということが、下界での暮らしでの精神的な助けになっていることは間違いない。
女性のターンであがるスプレーは、キラキラと光っているように錯覚することがある。
雪の結晶ひとつひとつがよろこんでいるようで、そんな軽やかさに見惚れてしまう。
それは繊細で豊かな感受性がそうさせているんじゃないかと同性ながら感銘を受ける。
その延長線上には、急な沢地形を息を弾ませウォーとか言いながら滑り落としていく勇敢さみたいな、下界じゃ見出せない女性の美しさも存在する。
雑な言い方をすると、「知ってしまったらもう最後。あとはけっこう細かい」といった感じやすい特性が女の人の強みであると。
女性がドロップ地点に立つことのハードルはもの凄く高い。少なくとも私には。
一人の人間として関わってくれる友達と出会えたのは何にも変えがたい人生の財産。
そういう感じやすさを活かして、末っ子気質なりに、スノーボードにまつわる様々な質を向上させていくことに努めようと決意を新たにした所存であります。
こうやって文章に書くと頭が整理されて助かる〜