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魅了は葛藤に宿るという矛盾を食べた

この世には、「自分が書きたい文章」と、「お金になる文章」とがある。二つの丸いベン図が重なり合うことを祈りながらも、そうでない日々を知っていくことが大人になるということなのだろうか。

自分がつくりたい音楽と、お金になるそれが違うとか、自分がつくりたい映像と、お金になるそれが違うとか、自分がつくりたい野菜と、お金になるそれが違うとか。

そして、その葛藤に人の人生が宿るのかもしれない。なんて思う夜を私は味わってしまった。

南国・高知にも寒空が広がる1月中旬、「野菜を作る者と、それを料理する者が一堂に会するディナー」が催された。

季節料理とナチュラルワインが楽しめるレストラン『ALO』。この日、ALOには3つの農家が集った。シェフが用意したのは、一皿ごとに各農家の野菜が楽しめるコース料理だ。

ゴボウとじゃがいものポタージュ

一皿目は、私が週の半分通う中里自然農園の「ゴボウとじゃがいものポタージュ」。上には、小さなほうれん草が仰向けに浮かんでいる。

まだスプーンの上にいながら、ゴボウの土の香りが、鼻の穴を満たしてくる。その香りの強さとは裏腹に、いざ口に入れると、今度はじゃがいもが顔を見せてくる。ほっくり、こっくり。ゴボウって、じゃがいもと仲良くできるんだ。

ショートケーキのイチゴは最後に食べたい側の私は、ポタージュを飲み干してからほうれん草を掬う。これ、あれかな、寒かったあの日に手がかじかみながら収穫したほうれん草かな。違うかな。

今年の冬はなかなかやって来なかった。気候変動だろうか。そのせいで、その多くが虫に食べられてしまったというほうれん草。おかげで、成長が止まった手のひらサイズのほうれん草が畑に残った。泣こうが喚こうが、神のみぞ知る天候の行方に従うほかない。

いま書いている700字が突然、明日リセットされたら、私は怒り心頭するだろう。それを濃度100倍ぐらいにしたものが農業なのだと思う。

それでも、ポタージュのお皿に収まるほうれん草は、強烈に甘くてほのかに青かった。「小さいからってなめんなよ」って華麗なカウンターパンチをくらった。

春菊ときゅうりのサラダ仕立て ババロア添え

二皿目は、キュウリ農家で他にも多品目、ハーブ育てるファームべジコの野菜プレート。

春菊と、その下に隠れるキュウリを、バジルオイルとババロアに絡めながら頂く。フォークとナイフで春菊とキュウリを食す日がくるとは。正直、難易度高いよ。

フワちゃんとデヴィ夫人が出会ってしまったくらい斬新な組み合わせだった。でも、春菊は苦みが少なく、キュウリの青さともマッチしてしまうくらいのスマートな爽やかさで、バジルオイルとババロアを受け止めていた。

人参とケールのエチュベ

私は、この一皿を一生忘れないと思う。
だって、あの「美味しい」はただの「美味しい」だけじゃなかったから。

実は、ALOに来る前に、人参を育てたキセツノオヤサイ葉屋の隼人さんが畑を案内してくれた。まず私は、普段働いている畑の、3倍もの広さにあっけにとられた。

「この広い畑を一人で草刈りするの?死ぬじゃん(心の中で)」

しかも、皆が同じものを食べても同じ体形にならないのと同じで、その土地によって土質も違えば、健康状態も、日当たりも異なる。広大な畑を観察しながら、その土に適した食事を与え、野菜が育つのを待つ(のだと思う)。家族の命も背負いながら、動き続け、ベストを尽くしたうえで、畑一面の野菜は突然、パーになったりもする(のだと思う)。

そこにはまた、私には想像できない底なしの葛藤が植わっていたように思う。それでも、力強く畑に立つ隼人さんに私はただ圧倒された、のだ。

シェフが運んできた3皿目は、人参のグリルにケールのチップスが添えられていた。ケールのソースと豆腐ソースと安納芋ペーストを人参に載せて食べるという。どんだけシャレオツなマリアージュですか?

まず、一皿の真ん中にちょこんと寝そべる可愛い姿よ。野菜って別に大きくなくてもいいんよな。

目隠しして食べてたら、人参とはわからないくらいのホクホクに目を見開いた。そして、フルーツのような、奥ゆかしい甘さが口内にとろける。この人参を食べて、人参嫌いになる子どもがいたら、カレーライスが苦手な子どもぐらいレアだと思う。泣く子も黙る人参のグリル。


3皿目が食べ終わるころ、お手洗いに立ち上がった。すると、少し離れたテーブルで交わされる農家の会話を耳にひっかけながら、キッチンでワインを嗜むシェフの姿が。もう、出ているのですよ、シェフの優しさが!プロフェッショナルなその佇まいに!

「農家の想い、野菜の味、その一切を静かに受け取って、一皿に作り変えるのでしょうな!だから美味しい訳よ!!!」と心の中で叫びました。

最後は、ALOの二人もテーブルについて、尽きない話を受け取りあっていた。

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あの夜はあたたかかった。実際にストーブであたたかかったのかもしれないし、お酒で身体があたたまったのかもしれない。舌が美味しさを感じ、野菜が身体を通過する時、そこに滲むあらゆる苦労や骨を折る葛藤の断片を、一緒に飲み込めたからなのかもしれない。


翌日、スーパーに陳列される300円、400円の値札が張られた野菜をみて、

「高!こんなん買えねえよ!」

って思っている奴は確かに私だ。来世では、「美味しい」のすぐそばにいつも作る現場があってくれって思う。そうしたら、作る人も今より幸せだし、買う人も今より幸せだ。

儚い願いをしたため、ここらで筆を置こうと思います。この2000文字も、自分が書きたい文章ではあるけれど、誰にも頼まれていないし、商品にもお金にもなりえない。それでも、綴ってしまった文章なのだから仕方ない。ALOの料理が私の心をあたためたように、私の葛藤が誰かの心を少しだけあたためられたら、これ幸いだ。



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