カフェ神学
カフェ神学というものがある。
ぼくがそう呼んでるだけだけど。
カフェで本を読んだり原稿を書いたりしていると、隣に声の大きなおじさんと連れの兄さん二人が入ってきて、椅子に座るなり煙草を吸いはじめる。どうやら話題はスロットについて。パチンコ屋の半分を占めるアレである。
今日打ってきた新しい台について、機種の特性、他の機種との違い、あれがどうなったときあれがこうなる。店の特徴や曜日と場所の設定について。よどみなく喋る。ものすごく詳しい。驚くほど。
対になって喋っている兄さんも負けていない。パチスロ雑誌やネット情報といった「参考文献」を読み込んでいる。どうやら最新の理論で武装しつつ、しかし実践もおろそかにしないニュータイプのようなのだ。情報戦に持ち込んで戦線を攪乱しようとしているのだろうか。
互いの知識を競いあうように熱く語るのを盗み聞きしながら——なにしろ声が大きくて仕事が手につかない——、あろうことか、ぼくは大学院の研究室を思い出していた。
なぜだろうか。
これはある体系をめぐって交わされる現代の神学論争なのだ。
世界——スロット台——の振るまいはあまりに気まぐれで、ときとして情け深く、ときとして残酷だ。それゆえ初心者にとってはそこで生じる現象にたいした意味や整合性を見いだすことができない。
しかしながら日ごとパチ屋に通い詰め、実践し、解釈し、再び実践するというサイクルを続けて来た修行者たちにとって、スロット台はその挙動の背後に「ある体系」を秘めた解読可能な対象に見えている。
彼らは神学者のように、日々の実践と自身の解釈を戦わせている。これほど真剣に研究対象と向かいあう人々がどれだけいるだろうか。
陶然としてしまう。
ある哲学者のテクストを端から端まで読み込み、それについて書かれた文献を読み込み、新刊書や新刊雑誌はチェックしておくといった態度となにが違うのかぼくにはわからない。その上、彼らは日々活発に議論を戦わせ、自身の解釈を練り上げ続けているのだ。
陽の射すカフェの一角はそのとき、中世の修道院に、あるいは現代の院生室になっている。
カフェ神学——人々はそれぞれの宗派に分かれてはいるけれど、今日もある体系についての新たな解釈を紡ぎあっている。その対象は、野球、競馬、マルチ商法、スマホゲーム、芸能ゴシップと幅広い。
おそらく、人は、喋り続ける。ある体系について。
そして勉強嫌いを公言しながらも、ある体系について日夜勉強し続けてしまっているのだ。
そうとは知らずに、それぞれの仕方で。