混ぜないで!不登校・引きこもり・ホームスクール 対応の違い
学校にいかなくなった、と悩み始めたころは
学校は学び関係のプロ
行政は相談関係のプロ
と信じて疑わなかった時期もありました。
ところが、普通に通っている時点での相談ごとならいざ知らず、「学校いかない」「行けない」層に存在する家庭向けの情報は持ち合わせている学校のほうがすくなく、こちらが「教育機会確保法」や「N高」について説明する立場になる時期もありました。
学校だから、学びに関してなんでもキャッチアップできてると思っていましたが、それはもう先生次第で。
現代の流れをきちんと勉強されている(多様なまなびに同意であるかどうかは別として)先生もいれば、管理職などの方は、昔のままのスタイル・考え方を突き通そうとする方もいる。
行政は行政で、「学校行かない」って、福祉や障害もまざってはいるものの、単体の「福祉・障害」分野より切迫感がない問題と扱われてしまうのか、いろんな分野・機関をぐるぐるとさせられて結局なんの解決策も方法論も見つからないまま、問合せ疲れだけして終わる、というケースがほとんどです。
学校いかない、に関しては、
学校も行政もプロではなかった。
国の会議でさえ、「不登校・引きこもり」は会議名でセットになってついてくる。
学校に行けない→ホームスクールです。と仕方なく名称つけてお話ししてもそれを知らない(名前自体はわかっても内容がわからない)教育者も多かったり。
どこにもプロがいない分野です。
そうなると、保護者自身が知識をつけるしかなくて、でもそれを提示すると保護者には権威性がないからモンペ扱いになってしまったり、こうるさい教育ママみたいな立ち位置になってしまいます。
プロがいないにも関わらず、義務教育中は学校や自治体との関わりは必須。
状況把握をはっきりできないことは、対応の仕方に影響します。
問題の切り分けができていないから、的外れな対応や、逆にこどもに悪影響なひとことを発する。
だれもいじめようと思ってこどもにその一言をわざわざ発する福祉職(SSCやSC)や教員はいないでしょうし、でもそのひとことで数年こどもが引きこもる発端となるような言葉を吐いてしまうのは、問題の本質が見えていないからだと思うのです。
不登校はイコール引きこもり?
自治体や国の会議。
タイトルによく、不登校・ひきこもりなんちゃら会議、ってつくんです。
そして、いろんな活動名も不登校と引きこもりセットになることが多い。もちろん一部そういうこともあるので、対応やサービスとしてまとめて特化している団体がいてもおかしくないので、それは現場として理解はできて。
ただ、その場合、ちゃんと「引きこもり対応」と「不登校対応」はわけて考えられているのかな?ということは気になります。
明記されていなくても、スタッフの経験値とからで臨機応変に対応されているのが現状だと思うので、実際に不登校のこどもたちに関わっているおとなたちに対しては違和感を感じることはあまりありません。
直接かかわるというより、不登校をサービス化する、もしくは机上のみで策を話し合う、そういう場では混同されていることが多いなと感じます。
学校行けない、と学校行かないの違い
外部から指摘されると、わざわざここを言い直すのでめんどうくさい保護者だとおおわれているかもしれませんが、ここは大きな違いです。
と同時にサドベリーやフリースクールに最初から決めている、というような教育熱が高い環境からの「学校行かない」ともまた違うので難しいところです。
これはホームスクールにも関連して、最初からホームスクールをするという理念のもと「学校に行かないと決めた」というのとも違うので、不登校=ホームスクール、のほうも並列にできない部分があります。
もう10年もしたら、小1に
学校行く? ホームスクールする?
と聞いて決めれる社会が来るのかもしれませんが、現状不登校になったけどどうにか対応している家庭は
学校行けない状況に追い込まれ
⇩
相談しても対応策がなく、このまま引きこもっていてもこどもに良くない
⇩
ふっきる こどもの心身健康優先
⇩
学校行かない
という行けない→行かない、の変遷を経てきているわけで、学校行かないとポリシーを決めたところで、ホームスクール推進家庭、と同列にもしにくいわけです。
学校に、「学校へ行けない」状態に追い込まれていることが多いわけなので、最初からホームスクールを選択した前提のように定番ワード、
教育を受けさせる義務がねー、うんぬん
とか言われると腹が立つわけです。
もちろん変遷のなかで教育の権利、ホームスクールの権利、できること、なども理解してきています。
最初から選んでいた場合も、批判の声は上がるでしょう。それはある程度覚悟はしている。けれども、こどもの状態を優先して
学校行かない
という(避けられず)覚悟を持つことになった、家庭に同じワードはちょっと違った意味を持って伝わります。
本来なら、学校外を選んだら、それ専門の相談機関や中継地点があればいいのですが、結局学校や行政がその役割を現状するほかないのであれば、なんだかんだ言って絶対数の少ない不登校にリソースを割ける分は少ないでしょう。それも事実としてわかります。
少なくても、上記3つがイコールではないこと、もちろん重なりあうところはあるけれども、対応策がまるで変わってくることくらいは理解しておいてほしいなと思います。
そして、不登校になるから引きこもりになるんじゃなくて、それを親に進言している学校自体が引き起こしていることかもしれないよ?ということも理解しておいてほしいです。
お願いばかりですが、でも「宿題しなさい」「塾遅れるよ」という声掛けや参観日・行事にいく義務教育を想定していた家庭が、教育の義務を長年かけて模索しているのです。
こどもの保健室の先生と、部活の先輩と、給食配達員とか何役かこなしながら。
だから、対応間違いの「たった一言」で傷つけられてきて欲しくない。壊してほしくない。それだけの話です。
社会の厳しさは、もしかしたら先生方より知っているだろうし、台所に立ったことのない管理職の方よりも、たぶん生活力ある子が多いから、その傷つくことばを=社会の厳しさ、と置き換えて仕方のないことだ、というのは違う。多くの場合、それは社会の厳しさというより、ひとりの生徒、ひとりの存在として見ていないときに安易に吐かれる言葉だからだ。
違うことを選ぶことに対して、手厚いケアや支援を求めているのではなく、ただ単に行かないことを選んでも
いいんじゃない?
という、選択のひとつとして当たり前に。
一度偏見にさらされていると、「その子自身を見てない評価や批判」がついてこない言葉なら大抵の厳しい言葉は大丈夫なものなのです。