こどもと意思疎通できる大人っていつもモヤモヤしてない?
*****
たくさん読んでくださった方、フォロー・メッセージ等ありがとうございます。
メッセージ返信の仕方がわからず記事内にてお礼させていただきますm(__)m
*****
最近思うこと。
わたし自身が親しくなる人って、たいてい「もやもや」している人が多い。
優柔不断とはまた違って、「必然」とか「必要」とかはっきりしているものなら、別に誰に相談するわけでもなくバリバリすすめるタイプだけど、答えがグレーなものにはとことん悩む。
悩み中ってイケてない感じも自分ではしちゃうんだけど、よく考えたら、こどもの頃の視点忘れてないってことなのかなと。
小学校に入り、「答え」「正解」をよしとする社会に馴染む前には、道を歩けば
なんであの虫黄色いの?
とか
なんでお菓子ひとつだけなの?
とか疑問に思ったことって「なんでなんで攻撃」が日常で、すこしずつ義務教育のなかで
「そういうものだから」とか「常識だから」
って言われ続けて慣れて、AはBです→はいわかりました、って疑いもなしに行動に移るようになる。
でも、もやもやする人はいつも
「なんでAはBなの?」とか「ほんとにAはBなのか?」とか本質を突き詰めたがり疑う。
AはBです、が正解ならいいけれど、人によっては間違いなこともあるだろうし、状況によっても正解は違うことがある。
問いを立てる、とかアクティブラーニングとか「学び」としての「疑い」は許容されるのに
生きることのなかや、学校や社会への問い、疑問に関しては
「そういうもんなの、黙ってやれ」
が隠れている気がする。それって結局、ほんとに問いを立てる授業ができているのか、自主性を邪魔してないのか疑問。
なんでもかんでも許されるという意味ではなくて、目標としている「自分の考えを持つ、話す、アクティブラーニング」とかに本当にたどり着くやり方かね?ということ。
なんで校則、髪まゆげの上なんだろーね、って考えるのはNGで、でも自主的に問いを立てろ、って管理側の都合のいいところだけ、自由にしていいよ、っていうような。
もやもやし続けている大人が、こどもとのやりとりが上手なのは、きっと言語化や建て前演技はうまくなっているけど、ずっと大人になっても
なんでなんで攻撃
を心のなかで社会にしているからなんじゃないかなと思う。
こどもの「なんでー?」に「黙ってやれ!」じゃなくて、
「だよねー」
って思ってしまう(笑)
答えがあるもののほうが精神衛生上楽なんだけど、どうしても「ん?これはこれでいいのかな?」ともやもやもやもや、それの繰り返しでおとなもこどもも成長しているのかもな、と思う。