こどもと意思疎通できる大人っていつもモヤモヤしてない?

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たくさん読んでくださった方、フォロー・メッセージ等ありがとうございます。
メッセージ返信の仕方がわからず記事内にてお礼させていただきますm(__)m
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最近思うこと。

わたし自身が親しくなる人って、たいてい「もやもや」している人が多い。

優柔不断とはまた違って、「必然」とか「必要」とかはっきりしているものなら、別に誰に相談するわけでもなくバリバリすすめるタイプだけど、答えがグレーなものにはとことん悩む。

悩み中ってイケてない感じも自分ではしちゃうんだけど、よく考えたら、こどもの頃の視点忘れてないってことなのかなと。

小学校に入り、「答え」「正解」をよしとする社会に馴染む前には、道を歩けば

なんであの虫黄色いの?

とか

なんでお菓子ひとつだけなの?

とか疑問に思ったことって「なんでなんで攻撃」が日常で、すこしずつ義務教育のなかで

「そういうものだから」とか「常識だから」

って言われ続けて慣れて、AはBです→はいわかりました、って疑いもなしに行動に移るようになる。

でも、もやもやする人はいつも

「なんでAはBなの?」とか「ほんとにAはBなのか?」とか本質を突き詰めたがり疑う。

AはBです、が正解ならいいけれど、人によっては間違いなこともあるだろうし、状況によっても正解は違うことがある。

問いを立てる、とかアクティブラーニングとか「学び」としての「疑い」は許容されるのに

生きることのなかや、学校や社会への問い、疑問に関しては

「そういうもんなの、黙ってやれ」

が隠れている気がする。それって結局、ほんとに問いを立てる授業ができているのか、自主性を邪魔してないのか疑問。

なんでもかんでも許されるという意味ではなくて、目標としている「自分の考えを持つ、話す、アクティブラーニング」とかに本当にたどり着くやり方かね?ということ。

なんで校則、髪まゆげの上なんだろーね、って考えるのはNGで、でも自主的に問いを立てろ、って管理側の都合のいいところだけ、自由にしていいよ、っていうような。

もやもやし続けている大人が、こどもとのやりとりが上手なのは、きっと言語化や建て前演技はうまくなっているけど、ずっと大人になっても

なんでなんで攻撃

を心のなかで社会にしているからなんじゃないかなと思う。

こどもの「なんでー?」に「黙ってやれ!」じゃなくて、

「だよねー」

って思ってしまう(笑) 

答えがあるもののほうが精神衛生上楽なんだけど、どうしても「ん?これはこれでいいのかな?」ともやもやもやもや、それの繰り返しでおとなもこどもも成長しているのかもな、と思う。


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