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承平・天慶の乱について

平安時代、平将門と藤原純友は、ほぼ同時に反乱を起こした。実際は偶然だったようだが、あまりにもタイミングが良かったため、後世、示し合わせていたのではないかということで逸話が作られている(海音寺潮五郎『悪人列伝』)。実際、当初から共謀を疑う声はあったようである。
古くは承平・天慶の乱と言い習わしてきたが、承平年間の戦闘は平将門の私闘の様相が強く、朝廷も反乱とは見なしていなかった。それが一転して反乱と見なされたのは、天慶二年に藤原玄明の処遇をめぐって将門と国司の藤原維幾が対立し、武力闘争の末に国衙を焼いてしまったことによる。その結果、将門は予期せず反乱軍の首魁になってしまい、「新皇」を称して関東一円の支配を目指そうとはしたものの、個々の有力豪族には手が出せなかったようで、結果的に藤原秀郷と組んだ平貞盛に討たれる。意外にもあっさりした幕引きであった。鎮圧までは約2ヶ月である。
このことから、単に天慶の乱とも言う。

平将門

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