雑談集②
【新泉社の『シリーズ「遺跡を学ぶ」』について】
新泉社の『シリーズ「遺跡を学ぶ」』は遺跡の概要(発掘調査の経緯・経過から最新の研究成果まで)が物語形式で書かれていて、きちんと要点も押さえられているので考古学初心者でも読みやすい。全ページカラーのビジュアル本なので図版・写真も多く、わかりやすい。いいシリーズである。
このシリーズの特徴は、その遺跡の調査や研究に携わった人に原稿を依頼していることで、当事者でないと書けないこと(発掘調査時の裏話や、実際に調査した際の知見に基づく仮説の提唱など)が満載で、読んで楽しいだけでなく勉強になる。 僕も愛読しているが、さすがにシリーズ全巻をそろえられる余裕がなく、近畿の古墳を中心に集めている。
遺跡を知るには発掘調査報告書を読むのがいちばんだが、あれは読めるものじゃない(当事者がこんなことを言ってはいけないんだけど)。
【差別用語の解消が「言葉狩り」にならないためには】
有川浩氏の『図書館戦争』は大学の司書課程の課題で読んだのだが、図書館の役割や検閲の問題点、過剰な表現規制の問題などいろいろおもしろかったのだが、ストーリー的にはあまり満足できなかったというのが本音である。結局、シリーズの後発作品は読んでいないのだが……
当時は過剰な表現規制の問題に目が行って、それは今も変わっていないのだが、当時はその上っ面だけを眺めていたことが最近になって分かった気がする。実態はもっと根深いよな、と。
改めて考えると、特定の言葉を使わないようにしたり、表現を変えたりということが、本当に差別や偏見の解消になっているのか、疑問に思う。現状、なぜ使ってはいけないのかという説明を僕は受けた記憶がなく、ただ「使ってはいけない」といわれただけのように思う。それでは納得できない。
また、言い換えについては単なる詭弁に見えるものがあるのも事実である。差別解消は必須だが、そのための「建設的な」議論は果たして行われたのだろうか?
【留飲を下げる必要性】
最近、古い時代劇(『暴れん坊将軍』『長七郎江戸日記』『斬り捨て御免!』など)を見ていると、ああいう単純な勧善懲悪型の娯楽時代劇が今また必要なんじゃないかと思われてくる。
留飲を下げるというのは、経験から精神衛生上大事なことだとわかるのだが、フィクション(小説やドラマなど)で人間の不条理さなどを描く「高尚な」作品が高く持ち上げられ、評価が高まる中でパターン化した娯楽作品を貶める傾向が生じ、一方でパターン化とマンネリ化を混同して嫌う風潮ができがったようにも思う。
最近は重いタッチの小説やドラマが多く、刑事ドラマでも後味を引くため解決して溜飲が下がるという作品が減っている。ではどうやって留飲を下げるかと言うと、回りまわってSNSにおけるマウント合戦や誹謗中傷に繋がっているのではないかと邪推してしまう。
マウント合戦は一歩間違えると誹謗中傷になるが、そもそもマウント合戦をやったところで溜飲が下がる訳もなく、よりギスギスするだけだと思うのだが。
YouTubeでスカッと系の創作動画にある程度需要があるようなのだが、テレビがそうした庶民の留飲を下げる役割を果たさなくなった結果、そちらに人が流れているのかもしれん。