中国史小話集⑭
【西晋滅亡の原因】
中国・三国時代の魏の後を受けて成立した晋は、永嘉の乱を挟んで西晋・東晋と呼び分けるが、久々の統一国家でありながら、成立当初から不安定であった。その原因は、初代皇帝の武帝(司馬炎)にある。
武帝は呉を滅ぼすと、自らの仕事は終わったと思ったのか、政治に憂いて女色に耽るようになる。国家成立の流れとしては、呉の攻略までが「創業」で、それ以降が「守成」となる。ところが、武帝はその「守成」の事業を放りだしてしまったのである。これに賈充一族と楊駿一族の、外戚同士の争いが加わり、政情は混乱をきたす。その中で衛瓘や張華といった名臣が命を落としたのは痛手だったと思う。 さらにややこしくなったのが、この外戚同士の争いを利用するかたちで宗室たちが争うようになったこと(八王の乱)で、この争いでさらに多くの血が流れた。このような状態であってみれば、異民族の慰撫にまで手が回らないのは当然で、統一国家でありながら晋はあっさりと滅びてしまった。
この時、八王の乱の影響で宗室の多くが命を失っていた。かろうじて難を逃れた司馬睿が、王導をはじめとする名臣たちを連れて江南に奔り再興したのが東晋である。 永嘉の乱の後、匈奴の劉淵の子孫が中原を支配するが、石勒が反旗を翻したのを皮切りに五胡十六国時代という群雄割拠状態になる。
【『晋書』について】
先行する史書がありながら新たに編纂されたという点で、『後漢書』と『晋書』はよく似ている。
現行の『晋書』は唐代に太宗の命令で編纂されたものである。しかし、実際は東晋時代から既に晋の歴史は纏められ始めていて、それを総称して「十八家晋史」といった。そうした先行する歴史書がありながら、なぜ唐代になって新たに『晋書』が編纂されたのかがよくわからない。
唐代に入ると、自治体の市史編さん室のように国史の編纂をする部署が設けられる。国家事業として行われるので、そこが発行する歴史書は官選である。それ以前の『漢書』や『三国志』は命令で纏められたものもあるが、個人が編纂して献上しているので私選という。
一般に二十四史のうち、『漢書』を筆頭に私選の歴史書のほうが高評価な印象があるが、個人が編纂しているため、視点の混乱などがなく読みやすいというのがあると思う。一方で個人編纂のため、編者の思想などが色濃く出てしまうところがあり、『史記』などは司馬遷の思想がかなり強く表れているように思う。
唐代以降の史書については、複数の人間が編纂に関わっているためか、情報が錯綜している場合があり、『晋書』を例に取ると、ある部分に「このことは百官志に見える」と記されているのに、肝心の「百官志」が存在しないというとんでもない事態が起きている。