中国史小話集⑲
【劉邦の親友・盧綰】
盧綰は中国・秦末漢初の政治家・軍人で、劉邦に仕えた。劉邦と同郷で家族ぐるみの付き合いがあり、劉邦と同じ日に産まれたことで、劉邦とは特に親しい間柄だった。そのため、劉邦の臣下では唯一、劉邦の寝所に立ち入ることができたという。
項羽と劉邦が覇権を争った頃は、戦国七雄の末裔たちや、戦乱に乗じてのし上がった英傑たちが群雄割拠していた。いったん劉邦に帰順していた燕王・臧荼が反乱を企て粛清されると、盧綰が後任に推され燕王となった。
晩年、劉邦は猜疑心が強くなり、韓信や彭越といった、武勲があり、かつ地方領主となった功臣たちを次々粛清していた。あろうことか、その矛先は盧綰にも向き、討伐軍が編成された。劉邦のそばにいた陳平と周勃が「さすがにまずい」と考え、行軍スピードをゆっくりにして時間を稼いでくれたので、盧綰は急襲されずに済んだ。盧綰は「劉邦の猜疑心が強まっているのは一時的なもので、いずれ誤解も解けるだろう」と考えていたが、劉邦は英布と戦ったときの怪我が元で崩御してしまった。子の恵帝が即位したが、まだ若く、生母で皇后の呂雉が後見を務めた。盧綰は、呂雉が功臣粛清に積極的だったのを知っていたので、将来を悲観して匈奴に亡命し、間もなく亡くなった。
盧綰の死後、家族は処罰される覚悟で漢に帰還した。呂雉は、家族ぐるみの付き合いがあったこともあってか、盧綰の家族を咎めなかった。呂雉が崩御すると、続けて盧綰の妻も亡くなったという。
盧綰はある意味、不幸な人生を辿ったと言える。彼の性格や立ち位置を考えると、諸侯王にならず、劉邦のそばに仕えていたほうが幸せだったと思われる。
【ふたりの韓信】
韓信といえば「股くぐり」や「背水の陣」などの故事で有名で、劉邦のもとで軍人として頭角を現し、趙や斉などの諸侯を平定して劉邦の天下統一に貢献した。その功績で彭越や英布とともに異性諸侯王として厚遇されたが、最後は謀反の疑いで処刑された。軍事には秀でていたが、政治には疎い人物だったといえる。
実は、劉邦配下には韓信という人物が二人いる。先述した韓信は『史記』では「淮陰侯列伝」で取り上げられており、「韓信盧綰列伝」で取り上げられている韓信は別人である。彼は戦国七雄の一国・韓の王族で、後世、先述した韓信と区別するため韓王信と呼ばれる。
彼は劉邦が最初に諸侯王に封じた人物であり、本来は劉邦の筆頭軍師であった張良の主君にあたる人物であった(張良は韓の旧臣で、劉邦にとっては客将であった)。 天下統一後、韓王信は匈奴との和平工作を背信行為と見なされて進退極まり、匈奴に亡命した。その後は匈奴側の将となっていたが、柴武と交戦した際に死んだ。