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考古学小話集④
【佐紀古墳群と馬見古墳群の一考察】
大和古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群を畿内5大古墳群という(おもに広瀬和雄先生が使っておられる)。大和古墳群以外は古墳時代中期に盛期があり、同時並行的に造営が進んだようである。古市古墳群、百舌鳥古墳群は大王の墓域、佐紀古墳群は和邇氏、馬見古墳群は葛城氏の墓域とする説が有力だが、佐紀古墳群、馬見古墳群ともに一豪族の墓域とみなすには規模が大きすぎ、かつ交通の要衝に位置しているところから、大王の墓域に準ずるもの、おそらく后妃の墓域ではないかと考えたことがある。
どちらの古墳群も、規模もさることながら個々の古墳が大きすぎる。
実はこう考えているのには理由がある。葛城地域の首長墓の編年はは室宮山古墳→掖上鑵子塚古墳→屋敷山古墳となるが、全長234㍍の室宮山古墳が最大で、後継古墳は全長150㍍前後と小さくなる。三宅古墳群など、同様の変遷を取る古墳群や地域はそれなりにある。一方で、馬見古墳群や佐紀古墳群では全長200㍍級の前方後円墳が継続して造られ、古墳群の構成は百舌鳥古墳群や古市古墳群と似ている。この、百舌鳥古墳群や古市古墳群との類似も、私が佐紀古墳群や馬見古墳群を準皇族=后妃の墓と考えている一因なのである。
もっとも、同規模の首長墓が継続して造られる埼玉古墳群のような例もある。
【古墳の立地】
古墳の立地は様々だが、一つの傾向として、
前期:眺望のいい丘陵・尾根上
中期:平野に見える微高地
後期:丘陵上、山麓
という感じになる。終末期古墳は風水思想に基づいた立地になる。
特徴は前期・中期は眺望や仰望を意識しているが、後期古墳はそれらをあまり意識しなくなることである。眺望は上からの眺め、仰望は下からの眺めである。前期古墳と後期古墳は高所にある場合が多いが、前期古墳は眺望・仰望の双方、またはどちらか一方をかなり意識していて、「見られる」ことを念頭に置いて築造されている。箸墓古墳は扇状地上にあり、そこまで高さを意識していないが、どの方向からも見られるよう意識して造られている。西殿塚古墳は山麓の傾斜面にあり、平野がある西側から見られることを意識して、段をひとつ増やすなど工夫している。一方、明日香の平田梅山古墳は、丘陵に寄せるように築造されていて、しかも平野と反対側にある。完全に「見られる」ことを無視している。
前期古墳には、若草山山頂の鶯塚古墳のように、極端な高所に築造されている例がある。また、そこまで高所でなくても、周囲とは隔絶した地形の丘陵や尾根上に築造されていることもある。近藤義郎先生や今尾文昭先生は、古墳の立地は標高より比高のほうが大事だといい、高さより地形的な隔絶を重視していたと指摘する。