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歴史小話集⑦

【酒解神社】
京都府大山崎町、天王山の山腹に酒解神社という神社がある。正式名称は自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)で、式内社。 養老元年の棟札があり、奈良時代には創建されていたらしい。
明治10年6月、天王山中の山崎天王社が式内・自玉手祭来酒解神社であるとされ、自玉手祭来酒解神社に改称したもので、当初は現在の離宮八幡宮の社地に鎮座していたという。明治に入る頃には祭祀が途絶え、所在もわからなくなっていたようだ。 神輿庫は鎌倉時代の建築で国指定重要文化財。 余談だが、天王山の名は山崎天王社に由来する。以前は山崎山と言った。

【大伴旅人と筑紫歌壇】
大伴旅人は奈良時代の官人で、息子の家持とともに歌人として知られる。神亀年間から天平初年にかけて大宰帥を勤め、帰京後大納言に昇進して間もなく亡くなっている。
旅人が大宰府に滞在していた頃、彼の周囲には筑前守・山上憶良をはじめとする歌人が集まり、「筑紫歌壇」と呼ばれるサロンを形成していた。主なメンバーは前述した山上憶良のほか、異母妹の坂上郎女、筑紫観世音寺造寺司の沙弥満誓らである。
その筑紫歌壇を形成した一人に大伴百世という人物がいる。旅人の部下に当たり、後に豊前守となるが、詳細不明。犬養孝先生によると、彼の歌には既存の歌と類似するものが多いらしい。

【広島大仏】
「広島大仏」と呼ばれる仏像がある。像高約4mの阿弥陀如来坐像で、鎌倉時代の造像という。
一度、三段峡に祀られた後、広島へ移され、爆心地に近い西蓮寺に祀られていた。ところが、元の持ち主であった那須義憲の関係者と、像を譲り受けた奉賛会の間で話がこじれ、那須の関係者が像を持ち出して行方不明になった。
その後の経緯は不明だが、奈良県安堵町の極楽寺が、像を譲り受け、祀っていた。2004年頃から祀られていたようだが、住職が広島大仏に似ていることに気づき、奈良国立博物館の調査で広島大仏と確定した。

【蘇我氏小考】
蘇我氏はその祖を石川宿禰といい、名前から大和の曽我だけでなく河内の石川流域にも勢力を広げていたことが推測できる。蘇我氏の分家に石川麻呂という人物がいること、後に子孫が石川朝臣を名乗るようになることからも、石川流域が第二の本貫地ともいうべき重要な地であったとみて間違いないだろう。
もうひとつおもしろいのが、韓子、高麗といった朝鮮半島と関連がありそうな名前の人物が当主にいることで、蘇我氏が東漢氏をはじめとする渡来系氏族を配下においていたことと合わせ、朝鮮半島との政治的、経済的交流を担っていた傍証とも言える。蘇我満智と百済人木満致の名前の類似も気になるところである。

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