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中国史小話集⑦

【酷吏① 張湯】
張湯は中国・西漢(前漢)の官僚で、武帝に仕えた。法に厳格で、後輩の杜周とともに酷吏の筆頭とされるが、法を盾に苛烈な取り調べを行った寧成や王温舒らとは分けて評価する必要がある。このあたりは、『漢書』を編纂した班固もよくわかっていたようで、張湯と杜周は独立した伝が立てられているが、寧成や王温舒らは「酷吏伝」にまとめられている。
張湯が子供の頃、父に肉の番を命じられたことがあった。しかし、張湯が目を離した隙に、ネズミに肉を盗まれてしまった。このことで父から強く叱られた張湯は、ネズミを探し出し、巣穴から盗まれた肉の残りを見つけると、告発文を書き、それを読み上げたうえでネズミを殺した。その告発文は、老練な裁判官が書き上げたと思えるほどの出来だったため、父は舌を巻いたという。
武帝の信任厚く、最終的に御史大夫(丞相(首相)に次ぐ高官)に登ったが、朱買臣らに陥れられ、潔白でありながら自殺した。
子の張安世も優れた官僚であった。

【酷吏② 杜周】
杜周は中国・西漢(前漢)時代の官僚で、法に厳格だったため、張湯とともに酷吏の筆頭格とされているが、法を盾に苛烈な取り調べをした寧成や王温舒らとは別に考える必要があると思う。
杜周のエピソードで興味深いのは、人に「貴公は天下の裁判を司りながら律令に従わず、君主の指図によって獄を左右していますが、獄というのはそういうものでしょうか」と訊かれた際、「律令というものも、その時の君主がその時に正しいと思って作ったものであって、古から不変の法などではないのです」と答えたというものである。杜周は皇帝の顔色を伺い、取り調べに手心を加えたりしたので、官吏としてあまり褒められた人物ではないが、この考え方は個人的に好きである。
杜周は最終的に御史大夫へ昇り、子の杜延年もそれに続いた。杜延年は父と違い、緩やかで寛大な統治を心がけたという。
子孫に杜預(西晋の軍人、「破竹の勢い」の語源となった)、杜甫(唐の詩人、詩聖と呼ばれる)がいる。

【「竹林七賢」のリーダー・阮籍】
中国・三国時代、魏に竹林の七賢と呼ばれる人々がいた。阮籍・阮咸・嵆康・向秀・劉伶・山濤・王戎の七人で、世俗を避け、哲学談義に花を咲かせた人たちで、後世になると隠者のように捉えられていたが、実際は官吏として出仕していた人が多く、山濤や王戎のように大臣まで昇った者もいた。
変な逸話を持つ人が多く、リーダー格の阮籍は酒浸りの生活を送っていたが、司馬氏が権力を握っていく中で政争に巻き込まれるのを避ける目的があったらしい。権臣・鍾会が彼の言動の揚げ足を取って陥れようとしたが、抽象的な話しかせず、成功しなかった。
阮籍はあてもなく馬車を走らせるのが好きで、道が行き止まりになっていると、慟哭しながら帰ってきたという。
阮籍の妻が死んだ時、友人だった嵆康の兄が礼服で弔問に行ったところ、睨まれたので怒って帰ってきた。嵆康がその話を聞いて、平服で酒を持っていったところ、喜んで迎え入れられたという。
阮咸は阮籍の甥に当たる。

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