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【4世紀の纏向遺跡の中枢部】 纒向遺跡の中枢部は、4世紀になるとそれまで中枢部があった辻地区から、より山手の巻野内地区へ移る。珠城山古墳群の北側である。ここでは区画溝が検出されているが、吉野川分水の工事中に柱根と思しき丸太が大量に出たという証言があり、居館があったのは間違いなさそうである。吉野川分水の工事に先立ち発掘調査が行われなかったのが悔やまれる。 付近には垂仁天皇の纒向珠城宮、景行天皇の纒向日代宮伝承地の碑があるが、4世紀代であれば垂仁・景行両天皇の在位時期と合致し、纒
【古墳の見栄え】 古墳について、広瀬和雄先生は「古墳には見せたい方向があり、見せたい面は見栄え良く整形されている」と指摘している。 例えば、奈良県天理市の西殿塚古墳は斜面に築かれているが、平野側の見栄えを良くするため段築が一段多くなっている。 古墳がモニュメントであることをよく表す例である。 逆に、見えないところは手を抜くこともあり、私が発掘調査に参加した大阪府堺市のニサンザイ古墳は、墳丘裾部の調査で石材が少ししか出土しなかったため、周濠の水で隠れる墳丘第1段目は葺石を省いた
【粟鹿神社境内の古墳状隆起】 以前、兵庫県朝来市の粟鹿(あわが)神社を訪ねた際にびっくりしたのだが、本殿の背後にかなり大型の円墳らしきマウンドがある。裏に回ると、当時は藪になっていてよくわからなかったが、周溝らしきものも確認できた。 ここは遺跡地図では経塚となっている(不時発見らしい)が、周辺で行われた発掘調査の報告書を読んでいると、兵庫県の文化財担当者もこのマウンドが古墳である可能性が高いと考えているようだ。当時撮った写真を見る限り、自然丘陵としては不自然で、人工的に造られ
【佐紀古墳群と馬見古墳群の一考察】 大和古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群を畿内5大古墳群という(おもに広瀬和雄先生が使っておられる)。大和古墳群以外は古墳時代中期に盛期があり、同時並行的に造営が進んだようである。古市古墳群、百舌鳥古墳群は大王の墓域、佐紀古墳群は和邇氏、馬見古墳群は葛城氏の墓域とする説が有力だが、佐紀古墳群、馬見古墳群ともに一豪族の墓域とみなすには規模が大きすぎ、かつ交通の要衝に位置しているところから、大王の墓域に準ずるもの、おそらく后
【古墳群と水系・交通路】 古墳(群)の動態を水系で捉えた研究で、僕が知る最も古いものは伊達宗泰先生の「古墳群設定への一試案」(1975年)である。これは、奈良盆地の主要な古墳群と水系を結びつけ、地域ごとに古墳群の造営母体を推定するものだった。 ただ、水系で全ての古墳群を捉えきれるわけでもなく、その点は後に関川尚功先生が「大和における大型古墳の変遷」(1985年)の中で、古墳群と陸上交通路(街道)の関係として説いておられる。奈良盆地を例に取ると、河川交通を意識した立地の代表例
【慶運寺境内の石棺仏と古墳】 奈良県桜井市箸中に慶運寺という寺がある。普通の「村のお寺」なのだが、実は知る人ぞ知る名所で、境内に刳抜式家形石棺の身の部分を使った石棺仏があるのである。石棺に刻まれているのは弥勒仏であるとされる。 慶運寺境内には古墳があり、本堂裏に横穴式石室が開口しているが、僕が聞いた話ではこの古墳のものかどうかはわからないという。古墳は慶運寺裏古墳と名付けられているが、周囲が墓地として造成され、崖のどてっぱらに横穴式石室が開口している状態なので墳形は不明であ
【最近の考古学理論について思うこと】 雑な纏め方になるが、現代考古学の大まかな流れはプロセス考古学→ポストプロセス考古学(解釈考古学)→認知考古学という感じに進んでいて、従来の考古学では追いきれなかった様々な事象(例えば社会構造から心意まで)に対応できるようになってきている。 ただ、従来の実証主義に基づく考古学に慣れ親しんでいると、解釈主義に依拠するこれらの研究手法に違和感があるのも事実で、認知考古学では認知心理学の応用で遺物から心意を読み解くことが可能になり、精神世界の探求
【盆行事の話】 私の実家がある地域では、盆の時期に「七橋参り」という行事をしたという。私は母からこの名称だけ聞いた。母も詳細は知らないらしく、どのような行事だったのかは推測するしかないのだが、名称からすると、部落周辺にある7つの橋を巡礼したものと思われる。 川は世界の境界、橋は現世と異界を繋ぐ道であり、盆が「死者があの世から帰って来る」行事であることを念頭に置くと、先祖を迎え入れる行事であったと考えられる。 問題は「七」という数だが、中国由来の「名数」という考え方があり、同質
【清水の舞台から飛び降りる話】 「清水の舞台」で知られる清水寺は観音信仰の霊場として有名だが、ここには満願の日に舞台から飛び降り、無事なら大願成就、もし死んでも補陀落浄土へ往生できるという信仰があり、多くの人が飛び降りたらしい。そのためたびたび禁令が請願され、飛び降りないよう舞台を竹矢来で囲ったりもしたという(ちなみに、木に引っかかるなどしたのか意外と生存率は高く、八割くらいの人は助かっているらしい)。 この言い伝えから出た話だと思うのだが、次のような昔話がある。 昔、甲斐性
【赤飯と魔除け】 その昔、ある男が山道を歩いていると、「首吊らんか」という声がしたので、男は「帰りに吊るから待っててくれ」と言ってしまった。目的地についたのは昼で、そこで赤飯をご馳走になった。帰り、声がしたところに来ると、別の人が首を吊っていた。以後、赤飯は魔除けになると言われるようになった。 奈良県の伝説である。私も母から「赤飯は見逃すな」と言われて育った。赤飯は魔除けになるので、振る舞われたらかならず食べるべきなのだという。そのためか、コンビニで赤飯おにぎりを見つけるとよ
【百鬼夜行の話】 妖怪は夕暮れ時(黄昏時)、幽霊は深夜(丑三つ時)に現れるものとされる。以上は柳田國男の分析だが、例外もあり、百鬼夜行は深夜に出現したようである。 『拾芥抄』によると百鬼夜行が現れる日は決まっていて、この日に出かけなければならないときは「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」という呪文(和歌)を唱えれば百鬼夜行に出会わないとされた。 なお、密教の「尊勝陀羅尼」を記した護符を身に着けていると危難に遭わないとされ、藤原常行が着物
【五月豆を栽培しなかった話】 昔、天城のある部落では五月豆を栽培しなかった。村の産土神が豆嫌いだといい、他所から移り住んだ人が育てようとしてもうまく育たないという。しかし、太平洋戦争の戦局が悪化し、食糧不足が深刻になると、「豆を栽培しないのは国策に反するのではないか」との考えから産土神に参籠して祈願したところ、無事に栽培できるようになったという(『天城の史話と伝説』より)。 五月豆というのは聞き覚えがなく、どんな豆か気になって調べたところ、そら豆のことらしい。収穫時期に由来す
【即身仏になった人とは】 湯殿山において即身仏を志した行者は一世行人という下級の行者で、火の管理をするため生涯妻帯禁止(ケガレ忌避のため)、ほぼ寺院の雑用係で、出世しても本山末寺の行人寺の住職にしかなれなかったとなかなか厳しい生活。しかし、即身仏を志すと上人号が授与されるなど、格段に待遇が上がったらしい(命と引き換えなので、それも悲しい)。ちなみに即身仏修行の一環として行われる木食行(穀類を経つ行)はトランス状態に入りやすくするのが本来の目的で、この修行を積んだ行人は祈祷時の
【亡者道】 昔、『まんが日本昔ばなし』で取り上げられていたのだが、飛騨の山中には亡者道という、死者が通る道があるらしい。この道は霊山・御嶽山へ続いているという。 その昔、平十郎という百姓がいた。彼は狩りの巧者で、秋の刈り入れの後で鳥を捕るのを楽しみにしていた。 ある日、平十郎は知ってか知らずか、亡者道に鳥を捕る霞網を張った。途中、誤ってツグミに目をやられた平十郎は山小屋で養生していたが、ふと、以前聞いた「亡者道で猟をすると亡者の叫び声を聞く」という話を思い出した。一笑に付そう