言語から見る小乗仏教と大乗仏教の違い

小乗仏教と大乗仏教の違いを言語から解説します。言語から解説しているのが他と違うところになります。

 一般的には、お釈迦様が仏教を広めました。その時のお弟子さんたちが仏陀の精神を受け継いでつくったものが小乗仏教とされます。最古の仏教です。
 これに対して、大乗仏教は広く民衆を救済することを目的に後から作られたものになります。
 出てくる仏が違うとか、大切にする経典が違うとかいろいろあります。

 言語から読むと上記の認識が大きく異なっていきます。

 言語から読むというのは、「仏教用語を誰が何の目的でいつ作ったのですか?」ここが焦点になります。
 お釈迦様が仏教をつくり、仏教用語を作ったのであれば問題が起きません。現代の認識通りに、仏陀から小乗仏教が生まれ、それが大乗仏教に形をかえていったと言えます。

 ですが現実は違います。

 仏陀が生まれた時には、仏教用語がありました。

 仏陀が先か、仏教用語が先か。
 この問題をこれまで誰一人考えてこなかったのが不思議です。まあ、考えたところで答えを出せる人が周辺諸国にいません。どうしようもない問題です。

 この言語を解析すると、仏教用語がアーリアの言語だとわかります。
 仏陀はアーリアの人として目覚めたと言われています。ボーディサッタとはそういう意味にもなります。

 彼がボーディサッタと呼ばれた時、仏教はありません。仏陀をボーディサッタと呼んだのも仏教徒ではありません。

 ここが問題の根幹部分です。

 仏教徒は過去を遡って、このボーディサッタに違う意味付けをします。仏教になるとこれが仏教用語として再整理されるのです。仏陀は菩薩として目覚めたのが最初です。ですがこの菩薩は仏教用語の菩薩とはまるで意味が違うということを指摘しなければなりません。

 これを指摘すると小乗仏教と大乗仏教の歴史がわかります。

 小乗仏教では仏陀はアーリアの人で、アーリアの信仰の中にいます。お弟子さんたちは仏教の中に居ます。アーリアの信仰の中にいれば問題がないのですが、バラモンの宗教観で育った現地の人が価値観を変えるのは難しいということです。そのため、バラモンの価値観が変化した仏教ができます。

 この仏教と仏陀の考え方は根本的に違います。仏陀がいなくなってからは、誰も仏教の深化を止められません。独自に発展していきます。当然ながらこれはもともとのアーリアの信仰とは大きくかけ離れていきました。
 周囲のアーリア由来の人たちもだまってはいられません。仏陀をボーディサッタと呼んだのはアーリア由来の人たちです。本来の意味はこちらにあります。
 なので彼らの不満が大乗仏教という形になって表れていきます。もともとアーリアの信仰が基盤にありますので、出てくる仏がアーリア由来になります。

 アーリア由来とは、漢字で書くところの菩薩、阿修羅、阿弥陀、弥勒、観音、この辺りが全部そうです。

 経典にも根本的な違いが出ます。
 小乗仏教ではお弟子さんたちが解釈した内容が経典としてまとめられていきます。
 大乗仏教の初期の経典は、もともとアーリアから来た人たちがアーリアから伝えていた言葉になります。これは仏教徒に読める言語ではありません。これを読むためにサンスクリット語が作られますが、そもそも言語が違うためにサンスクリット語でも正常に読むことはできません。

 この違いの上で、仏教の経典などが発展していきます。

 なぜアーリアの言語を解析して、小乗仏教と大乗仏教の違いがわかったのかと言えば、まさにこの経典の違いです。大乗仏教の経典の中には3000年以上まえに言葉が作られているものが確認できます。
 仏教用語が、このアーリア語から作られているのも多くの問題をはらみます。

 現代のキリスト教がこれと同じような歴史を辿るなら次のようになります。
 英語で読まれた聖書があります。これを読んでいる人たちが、新しくキリストが復活されたと一人の男性を祝福します。
 このキリストは外国で人をあつめますが。その死後、仏教というものになります。外国の方々が集まってキリストの精神を受け継ぐとかいいますが、これがキリスト教とは大きくかけはなれていきます。
 英語で聖書を読んでいた人たちが、キリスト教に戻そうとします。こちらの聖典は、そのまま英語の聖書です。これが大乗仏教と呼ばれるようになります。こちらのほうではミカエルとかウリエルという名前が出ます。

 現地の人は小乗仏教が確立してから、大乗仏教が派生したように感じるかもしれません。実際に仏陀のお弟子さんたちからすれば、自分たちが解釈して広めたものが仏教で、それ以外は勝手に解釈が変えられたものでしかありません。

 この最大の問題が、つまり言語になります。

 小乗仏教はいいのですが、ここで使われる言葉がアーリアの宗教からの借用です。キリスト教の例で言うと、聖書から引用した言葉で宗教をつくってしまっているのです。

 これが仏教の中にある根幹的な問題です。

 


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