知らない人は知らない

 当たり前のタイトルを書いてしまっているが、当たり前こそ真剣に考える余地を多く残しているものである。

 人は多くのことを知らないものである。私もしかり。だからこそいろいろなことを知りたいと思うし、死ぬまで勉強だと思っている。

 それが前提のはずなのに、それを知っていないということは常識外れだ!なんていう風潮が今の世の中はびこっている気がする。「発言するからにはそのことをある程度、いや、熟知してから発言しなさい。」「歴史上もっとも大きな惨劇の一つなのだから、当然軽視してはならない。」「そんなことも知らずに生きているのか!」などといった感じで。

 知らないことが多くあるということをその発言をしている人、いや、これも多くの人(この発言自体今回自分の論じる内容に矛盾しているような気がするけれども)が知っているはずのことであるのにも関わらず、いざ、自分が知っていて、自分の意識の範疇に入ってきた人が知らなかったとき、その事実に対して、過剰なほどに反応し、知っておきなさい!だとか、知りなさい!!といった具合に、かなり傲慢に、押しつけがましく事実を見せびらかしてくる。

 大人になる前、ある人に、「大人になったら、矛盾を受け入れる力が悲痛ようだよ」、なんてことを言われたような気がする。その一例としてこの話はぴったりである。

 そしてこの知らないことへの責任が、現代、かなり大きくなっているようにも感じられる。インフルエンサーや著名人、重要な立場に立っている人にはここ最近顕著に感じられる。

 ここで考えなければならないことは、この情報化社会において、そういった広く影響を与える立場に立っている人だけがその対象でないということである。

 なんということのない一般人が、そういった責任を追及される立ち場に立つ可能性を十分にはらんでいる、あるいは、その責任問題に加担してしまう可能性があるということを考えておく、自覚しておく必要がある。

 情報という情報が蔓延し、知りたいことだけでなく、知りたくないこと、知らなくていいこと、どちらでもいいこと、様々なカテゴリの情報が無造作に手に取れるようになっている。それだけでなく、相手に「知れ!!!」と命令して、調べさせることは非常に容易である。

 誰にでも、なんでも知れるということが簡単になっている現代で、「知らなかったから」「調べたことがなかったから」といった言い訳は、通用しなくなっているような気がする。


それでもやっぱり、
「知らないことは知らない」
のである。

 内容を知っている人にとっては、重要なことのように聞こえることは当然であるけれども、その重要度は人によってさまざまである。それこそ、多様性である。

 知らないことに対して、憤慨する気持ちもよくわかるし、知らなかったことを恥じる必要もあると思うが、結局そこで冷静さを欠いてしまっては元も子もないように感じる。

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