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中動態に関する覚え書き もしくはハン·ガン「ギリシャ語の時間」読書ノート

私は私に殺された私を探す私だ
私を殺した私ももちろん私ではあるのだが
私はむしろ私に殺された私側の
私でありたいと思う私なのだ

私が私を殺す私となることは
比較的たやすいことだ
けれども私が私に殺される私の
身になって考えるということは
言葉にすることこそ可能だろうが
相当に難しいことであるようだ

とはいえ私が私を殺す時の私というのは
死にたいと思っている私であるわけだが
私が私に殺される時の私である場合
その私は確実に
生きたいと思っている私であるわけだ
私は私自身のことを
生きたいと思っている私であると
いなむしろ
生きたいと思っている私でありたいと
思っているわけであるのだけれど
思ってきたわけであるのだけれど
それなのに
私を殺す私の気持ちが想像できて
私に殺される私の気持ちが
想像できないというのは
どういうことになっているのだろうか

思えば今まで実際に何度も
心の中でだけの話だが
私は私を殺してきたように思う
それも私が私として生きるためという
言い訳をくっつけて
私は私を殺してきたように思う
その時々に私は
私に殺される私の気持ちというものを
一度でも考えたことがあっただろうか
考えたこともなかったからこそ
私を殺すなどということが私には
できていたのではなかったか

私を殺した私は生きていて
私に殺された私は生きていない
私を殺した私の言葉だけが語ることを続け
私に殺された私の言葉は語ることをやめる
殺し殺されるということは
そういうことだ

しかしどうしてそういうことになるのだ

私を殺すような私だけが生きていて
私を殺すようなことを決してしない私は
私によって殺される
死にたい私が生きていて
生きたい私は死んでいる
どうしてそういうことになるのだ

私が私を殺したいと思う時に
私の目に見えている私というのは
それはそれは殺したい私であるわけで
他人事のような言い方をするのも何なのだけど
その殺したさは確かによくわかる
だがしかしそれなら
私が私に殺される時
私に殺される私の目に
私を殺そうとしている私の姿は
一体どのように映っていたのだろうか
私に殺される前の私になら
それがわかったはずだと思うが
私を殺してしまった私には
もうそれがわかることはない

けれどもその時の私には
私のことを殺そうとしている私を
目の前にしてそれでもなお
生きたいと思うことが
できていたはずなのだ
私が私を殺すことなく
誰のことをも殺すことなく
私として生きて行くことのできる道が
ありうるとしたなら
その気持ちの先にしか
ありえなかったのではないかと
今の私は思う

だから今の私は
私に殺された私を探す私なのだ

…奈良から東京に向かう夜行バスの中でハン·ガンさんの「ギリシャ語の時間」を読み終え、思ったことをメモ書きにしていたら、詩のようなものができました。「私が私を殺すこと(能動態)」と「私が私に殺されること(受動態)」とは、「同じ何か」でありうるのでしょうか。日本語の世界に生きる我々には、普通ならそんな疑問さえ湧いてこないものだと思います。けれども「中動態」という「態」を持つ古代ギリシャ語においては、上のふたつが「ひとつの言葉で」表現できてしまうものなのだそうです。もしそんな言葉でものを考えることができたなら、「殺す」とか「殺される」とかいったような誰も幸せにしない言葉は必要にならなくなってしまうような気もするのですが、それはそれこそ気のせいというものなのでしょうね。

「おれはおまえが忘れてしまった大切な何かだ」という手紙を、むかし市会議員に当選して調子に乗っていた高校時代の友人に送りつけたことがあったのを同時に思い出しました。その友人とは結局しかしながら今でも変わらず友人でいることができているので、何ごとも短気を出さないことが大切だと思います。

さて私の本分の中山みきという人の伝記を書く試みについてなのですが、最近いっそう多くの皆さんに注目して頂いており、続きが書けていないことを心苦しく感じております。とはいえ書くべきことのイメージは、既に頭の中でまとまりつつあるので、気を長くしてお待ちねがえましたら幸いです。

ではまたいずれ。

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借り物の時間の中で
サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。