「教祖絵伝」を読み直す 8/25 「立教」再考その4 「神憑りになった」のか「神になった」のか
「立教」とは何だったのかをめぐる考察も、今回でようやく最終回である。中山みきという人が、長男の秀司の足痛を治すために行なわれた「寄加持」の場で「神憑り」になったことから、天理教の歴史が始まった、という教団が伝える伝承は、そのほぼ全体が中山秀司という人本人による「作り話」に他ならなかったということを、前回までの記事ではつぶさに検証してきた。しかしながら、「それなら中山みきという人には実際には何が起こったのか」という肝心なことについては、いまだほとんど考察が進んでいない。今回はそのことについて、集中的に考えてみたい。
中山みきという人は「立教」の前と後では、どう「変わった」のだろうか。そしてその日を境に彼女が説き始めた「神の教え/自分の教え」とは、どういう内容のものだったのだろうか。それを彼女は、誰に対してどのような形で教えたのだろうか。一番大切なのは、それを解明することであると思う。
「立教」についての考察を開始するにあたり、天保9年10月に実際に中山みきという人の身に起こったことが「どんなこと」であったとしても、それを「神憑り」という言葉で表現することは彼女の人格を否定する行為であり、自分はその立場をとらない、ということを私は最初に書いた。しかしながら、天理教の世界では、中山みきという人は人々に「天啓」を取り次ぐ人だったということが昔から言われており、その「天啓」に実際に接してきた信者さんたちの証言も、数多く残っている。
「天啓を取り次ぐ」とは、天理教的には「人々に神の言葉を伝える」ということを意味する言葉であるのだけれど、当時を知る信者さんたちによれば、中山みきという人は本当にしょっちゅう「神さんの言葉」を口にしていたのだという。そして「みきさんが喋っている時」と「神さんが喋っている時」では明らかに「人格が入れ替わっている」ということが、誰にでもハッキリと感じとれたのだという。みきさんが「神の言葉を語り始める現象」は、誰がいつからそう呼び始めたのかは定かでないが、「刻限」(こくげん)と呼ばれていた。
「刻限」はしばしば、何の前触れもなく開始され、その内容はともすれば「支離滅裂」なようにも聞こえるのだが、何かものすごく「大切でありがたいこと」が話されているということは雰囲気でありありと分かるので、当時の信者さんたちはみんな必死でそれを聞き取ろうとしていたのだという。みきさんの晩年には、この「刻限」が大体真夜中の決まった時間に始まるようになっていたため、その時間が近づくと「そろそろ刻限があるぞ」ということで、大勢の信者さんがみきさんの寝所の周りに詰めかけていたということも伝わっている。けれどもその「刻限話」の内容を正確に記憶していることのできた信者さんはほとんどいなかったと伝えられているし、またその内容を文字にして記録した資料なども、ほとんど残されていない。それは「自分の見た夢」の内容を正確に記憶していることが大部分の人にとって困難なことであることと、同じ理由によっているのだろうな、と何となく私は思っている。
「天啓とは何だったのか」ということを解明することは、そうした理由から今では極めて難しいことになっているのだが、「天啓」というもの自体は間違いなく存在していたということを疑うことができないように思われるのは、天理教とその周辺の歴史にはみきさんの他にも何人もの「天啓者」が存在したということが、事実として伝わっているからである。とりわけ、みきさんの死後に「本席」として信者さんたちを指導する役割を担った飯降伊蔵という人は、まさにこの「天啓を取り次ぐ能力」をみきさんから「引き継いだ」人であるということを誰もが認識していたからこそ、「右」から「左」まで全ての信者さんたちから、彼女の「後継者」として認められていたのだということが言いうる。
伊蔵さんの取り次いでいた「神の言葉」は、教団組織から「おさしづ」と呼ばれ、みきさんの場合と違って、「明治」の20年以降は原則的にそのすべてが文字で書きとられる形で記録に残されている。(みきさんの「おさしづ」として公式に記録に残されているのは、「教祖御臨終のおさしづ」として知られる、その死の直前の時期の言葉だけである)。その分量は何千ページ分にも及んでおり、またそれぞれの「おさしづ」が発せられた前後関係がほとんど記録されていないこともあって、総体としては「支離滅裂なうわごと」や「決まりきった定型文の繰り返し」にしか思えない箇所があまりにも多く、これを通読するのは容易なことではない。しかしながら、当時の事情を踏まえて読むなら、実に多くのことを我々に教えてくれる「言葉の宝庫」になっているのが、この「おさしづ」という「本」である。
1999年に豊嶋泰國という人が出版した、「天理の霊能者-中山みきと神人群像-」という、あまり真面目なタイトルには思えないけれど内容的にはかなり綿密な取材を重ねて書きあげられたことが伺える本には、伊蔵さんが「天啓」を人々に伝えていた時の様子が、さまざまな証言を踏まえて以下のように具体的に描き出されている。
…実に「ふしぎなこと」が初期の天理教の世界では繰り広げられていたものだということの他に、どんな感想も述べようがないような話であるわけだが、当時の信者さんたちは、そうやって「おさしづ」を発する伊蔵さんの姿に間違いなく「みきさんと同じもの」を感じとり、みきさんの口を借りて語っていた「神さん」と伊蔵さんの口を借りて語っている「神さん」は明らかに「同じ神さん」であるということを、ハッキリと「理解」していたわけである。その事実は、「そのまま受けとめる」以外にないことであるように私は思う。
天理教の中からは、とりわけ「明治」から「大正」の時代にかけて、伊蔵さんの他にも何人もの「天啓者」が生み出されている。ただし、そういう「決まり」を作ることは「神」の他に誰にもできないことであるはずなのだが、「天啓者が二人も三人もいては困る」という天理教団の側の明らかに「勝手な事情」にもとづいて、それらの人々はいずれも「異端」の烙印を押され、天理教から追われている。みきさんから6歳の時に病気を治してもらい、以降は長きにわたって彼女のそばで我が子同様に育てられ、天理教を追われてからは「大道教」という新興宗教をおこした安堵村の飯田岩次郎、初期の天理教において最大規模の教会だった大阪の北大教会の、初代会長をつとめていた茨木基敬、みきさんの死後に入信し、現在では天理教から分派した最大の宗教組織として知られている「ほんみち」の創始者となった、宇陀郡出身の大西愛治郎、そして「大正」年間に「みきさんの生まれ変わり」であると名乗って登場した、兵庫県三木市の井出クニといった人たちである。その他にも、天理教を信仰することを通して「天啓」が聞こえる(?)ようになった人々は、たくさんいたはずだったろうと私は思っている。
そうした人々のうち、幼い頃に母親に連れられて天理教の教会に参拝したことがあったということの他にはほとんど「お道」との接点がなかったように思われる井出クニという人のことだけは、私にも正直言って、よく分からない。けれどもそれ以外の人々について書かれた記録や資料を読み込んでみてつくづく実感されるのは、そのいずれもが本当に「真面目な天理教の信仰者」の方々だったのだな、ということである。家も財産も全てを捧げて「お道」のために尽くし、寝ても覚めても「神さん」のことと「おやさま」のことだけを考え続けているような真面目な人の心にこそ、「神さん」の声というものは聞こえてくるものなのだろうなということが、その「真面目な信仰心」というものをほとんど持っていない私のような人間にも、ありありと伝わってくるような印象を受ける。
けれどもそうした人たちの口を通じて語っていた「神さん」は、中山みきという人の口を通じて語っていたのと「同じ神さん」ではやはりなかったのだろうな、と私が感じるのは、飯田さんや大西さんの口を通じて語っていた「神さん」は、私の検証にもとづくなら「秀司のつくった教義」であってみきさん自身はそんなことは決して自分から語っていなかったはずの「八つのほこり」や「十柱の神名」といった天理教の教える概念を、そのまま「神の教え」として人々に取り次いでいるからである。そのてん伊蔵さんという人はやっぱりえらいもので、あの膨大な「おさしづ」を全文検索してみても、そういった「秀司のにおいのする言葉」はほとんどこれを語っていないのだ。(「八つのほこり」という用語に関しては数回使用例があるのだが、いずれもそれを「教理」として伊蔵さん自身の言葉で詳しく説明しているような「おさしづ」ではなく、記録者の「手癖」や「勝手な意訳」にもとづいて紛れ込んだ表現にすぎないのではないかという印象を私は受ける。文字になっている「おさしづ」は必ずしも伊蔵さんの言葉を正確に伝えているものではなく、書き落としや明らかな改竄の痕跡が随所に見受けられるのだが、そのことについては別に詳しく検証する機会を設けたいと思っている。そのことの上で「くにとこたち」や「をもたり」といった天皇制との関連を印象づける「神名」については、本当にひとつも使用例が存在していない)。
こうした事実は、極めて興味深いことを示唆していると私は思う。中山みきという人に最も近いところで師事し、彼女の教えと「秀司が教会で説いていた教え」とは全くの別物であるということを直接知ることのできた立場にあった伊蔵さんは、「おさしづ」の中においても実に注意深く、「みきさんが説いた教え」にだけもとづいて信者さんたちを指導しようとする姿勢を持っていたことが窺えるのである。これに対し、入信した順番としては伊蔵さんより早かったものの、当初は子どもで中山家における「大人の事情」など知るよしもなかった飯田さんの場合は、「みきさんの思いを無視して秀司が勝手に教えていた内容」をも「天理教の教え」として「素直に」受け入れ、それをそのまま信者さんたちに伝えようとしていた姿勢を見せている。
一方、生まれた時代が遅く、みきさんから直接教えを聞かせてもらえる機会を持つことのできなかった大西さんが取り次いだ「天啓」は、みきさんの死後になってから「みきさんの本当の教えが書かれた秘伝の書」といったような形で天理教内で流布されていた「泥海古記」という文書の内容に、全面的に依拠したものとなっているのだが、飯田さんの取り次いでいた「天啓」には、「泥海古記」とつながってくるような内容はほとんど含まれていない。いずれこのことについても詳しく触れる必要があると思っているのだけれど、「泥海古記」という文書は確かにみきさんの教えた「元始まりの話」を下敷きにして書かれているものであるらしいということは言えるにせよ、その内容はみきさんや秀司をはじめとした中山家とその周辺の人々が「天皇家の祖先神の生まれ変わり」であると教え、「これ疑えばご利益うすし」と説いている差別的な文書であり、私はハッキリとこれを「偽書」であると考えている。みきさんのことを知らなかった大西さんは、知らなかったからこそ「泥海古記」を彼女の本当の教えだと「信じる」ことができていたのだと思われるが、飯田さんの場合は「おやさまがそんなことを言うわけがないし、秀司さんさえそんなことは言っていなかった」ということを「わかって」いたから、「泥海古記」をまともに相手にしていなかった様子が窺えるのである。
こうした人たちの心に、ある日突然「神さんの声」が聞こえてきたという出来事は、間違いなく「本当にあったこと」だったのだと私は思っている。そして「天啓」というものは、人間にとって恋愛や子どもの誕生や自分の死というものが例外なくそうであるのと同じように、「歴史の流れと垂直に訪れる出来事」に他ならない。それにも関わらず、現実の世界において諸個人の上に訪れる「天啓」は、諸個人の歴史を踏まえた上でしか決して「降りて」こないものなのである。「神とは何か」「神は存在するのか」という自分の中の問いに対して、私自身は今のところやはり「わからない」という答えしか持っていない。けれども諸個人の存在を通して「神」というものが「あらわれる」時のその「あらわれ方」は、正にカントが指摘したように、その人自身の「認識能力」、あるいは言い換えるなら「悟りの深さ」を超越するものにはなりえないものなのだということを、我々は事実として確認しておく必要があるように思う。その意味で「天啓」と呼ばれる出来事は、いかに外見的にはその人が「神」という「他者」からその人格を乗っ取られているような状態に見えようとも、やはり本質的には「その人がその人であるということの表現」として受けとめるべき事象なのだと私は考えている。
「天啓」という言葉を広くとるなら、何かについて必死で探求している研究者が、ある日突然ふとしたきっかけから全く新しい「ひらめき」を得るといったような出来事も、世の中では「天啓」と呼ばれている。ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て万有引力の法則を発見したといったようなエピソードも、あれはあれで「作り話」の可能性が高い逸話であるらしいのだが、立派な「天啓」の一例である。こうした「ひらめき」は、「眠っている時に見る夢」によってもたらされるケースも少なくない。中山みきという人が78歳だった年にスイスで生まれたユングという心理学者は、みきさんだったら「神が教えた」と教えるところであろうこうした「啓示」というものは、人間の「外部」からもたらされるものではなく、人間の「内部」の奥深く、「無意識」の領域からもたらされるものであるということを指摘している。ユングの説によるならば、人間という存在は「意識された自分」である「自我」の領域においては「個別の存在」として「成立」しているが、「無意識の領域」においては「自他の区別」というものがそもそも成立しておらず、別々の肉体を持った諸個人もその「無意識の領域」においては「つながって」いるものなのだという。言い換えるなら個々の人間は「民族全体」「人類全体」というレベルでその「無意識の領域」を「共有」しているということが言いうるわけで、この広大な「無意識の大海」をユングは「集合無意識」と名付けている。
…というジョン·レノンの歌の一節が何となく思い出されてきてしまったりするのだが、そんな風に個別的な存在として生きている我々人間の一人一人が無意識の領域においては「つながって」いるものなのだという発想は、人間には「ひとつの共通の本質」が存在しているという我々の直感に説明を与えるものであり、かつ「神」という観念がどこから生まれてくるものなのかという問題にも、一定の説明を提示するものとなりえているように思う。この立場に立つならば、みきさんや伊蔵さんの心に直接語りかけていたという「神さんの声」というものは、「集合無意識からのメッセージ」に他ならなかったのだという風に、解釈し直すことも可能だろう。
しかしながらそうした「説明」が、果たして「科学的」なものになりえているのかということになると、私にもあまり自信がない。「神」という検証不能なものが「集合無意識」という同じように検証不能なものに「置き換わった」だけの話であるならば、ある宗教の内容を別の宗教の教義にもとづいて「解説」しようとするような試みと、大して変わらないのではないか、といったような気もしてきてしまう。なので今の段階ではこの方面の話は余談にとどめておくつもりでいるのだが、こうしたユングの心理学を日本に初めて紹介した人物が、天理大学の講師からそのキャリアをスタートさせ、二代真柱の援助によってスイスに留学して帰ってきた河合隼雄という人だったという事実には、やはり「いんねん」と言うか、ユングの言うところの「シンクロニシティ」を感じずにいられない気が私はする。いずれ機会があれば、この話は改めて掘り下げて考えてみたいと思っている次第である。いずれにしても、「天啓」というものは決して「特別な人間」にだけ「降りてくる」ものではなく、基本的には人間であれば誰でも経験しうることなのだということ、そしてそれは人間の「外部」からやって来るものではなく、むしろ人間の「内部」から、その人の個体史を踏まえた形でしか「湧きあがって」こないものなのだということ、この二点に関しては、我々が事実として確認できることだと言っていいように思う。
中山みきという人の中には、「みきさんとしての人格」と「神さんとしての人格」が「同居」していたように人々の目には映っていた、ということに関しても、それが「科学的に説明できること」であるかどうかは私には何とも言えないことであるにせよ、そうした事例は世の中を見渡せば「いくらでもあること」だということは、見ておかなければならないことだと言えるだろう。たとえば5〜6歳あるいは10歳くらいの子どもが、「イマジナリーフレンド」と呼ばれる「実際には存在しないが実在感を持ってその子と一緒に遊んでくれる仲間」の存在を自分の中に(外に?)感じている事例は広く知られているところであり、それは「子どもの発達過程における正常な現象」であると言われている。多くの子どもはその「イマジナリーフレンド」の存在を人に打ち明けることをせず、そして成長と共にその「イマジナリーフレンド」の存在を自らも「忘れて」しまうことを通して、一般的には「イマジナリーフレンド」は「消失」してしまうものなのだという。けれどもオトナになってからもその「イマジナリーフレンド」を持ち続けている人、あるいは新たに持つようになる人も少数ながら存在していて、かつてはそうした人たちは「多重人格」と呼ばれ、差別的な視線にさらされることが「普通」に行なわれていたわけだが、現在ではその多くの事例は「解離性同一性障害」と呼ばれており、「誰にでも起こりうること」であることが知られている。そしてその「治療」にあたっては…「治療」が必要になるのはその人自身にとってその状態が「苦痛」である場合が多いためだが、その「苦痛」の大部分は「病」からではなく社会からの「差別」によってもたらされるものであるということを見ておかなければならない…、その人の中に存在する複数の人格のうちのどれかを「本当のその人」と決めつけたりするのではなく、そのどの人格もかけがえのない「その人自身」のあらわれとして尊重する態度が、その人と共に生きようとする家族や友人には求められている。
そういったことが「なぜ」起こるのかということを「解明」することは、本質的には「人間はなぜ生きているのか」という問題に「答え」を出すのと同じぐらいに、難しいことなのだと言わねばならないだろう。けれども世の中にはそういうことも「ある」ということ自体は、ずっと昔から知られていたことだったわけである。しかしながらその当事者となった人たち以外には、それがどういう状態なのかということが「わからない」から、その人たちに「神憑り」「狐憑き」、あるいは「多重人格」という「名前」をつけて、差別的に「処理」してしまう態度をとってきたのが、今までの人間社会のありように他ならなかったのだと言えるだろう。「狐憑き」呼ばわりして迫害の対象にするにせよ、「神憑り」呼ばわりして「崇拝」の対象とするにせよ、その人の人格というものを勝手に「ないもの」として扱ってかかっている点において、同じくらいに「ひどいこと」であると私は思う。中山みきという人は、「おふでさき」の中において「天降り」という言葉は使っているものの、「神憑り」という言葉は一度も使っていなかった。そういった「言葉の選び方」を通して、「自分の言動には自分自身が責任を持つ」という姿勢を、彼女は一貫して明らかにしていたわけである。そのみきさんに対して一方的に「神憑り」というレッテルを貼りつけたのは、秀司という人を初めとした「周りの人間たち」のやったことなのであって、それは決して「みきさんのために」そうしていたわけではなく、「そうした方が自分たちにとって都合がよかったから」そうしていたにすぎなかったのだということを、我々は見ておかなければならないと思う。
という刑法39条の条文は、1970年代以降の「障害者」解放運動のたかまりの中で、当事者の人々からハッキリと「差別である」という糾弾を受けてきており、その撤廃を求めて闘っている人士が、今でも数多く存在している。その人たちは、「犯罪」を犯した「障害者」はどんどん処罰の対象にしろ、といったようなことを訴えているわけではもちろんない。「障害者」は「自分の行動に対し責任をとることができない存在である」という「決めつけ」が差別であり、それが許せないということを訴えているわけである。この「決めつけ」は、「障害者」の言うことなどまともに聞く必要はない、という「決めつけ」と表裏一体のものであり、こうした差別によって実際に生命をも奪われてきた「障害者」の人たちが、とりわけ戦争とファシズムの時代においては、無数に存在してきた。その歴史を二度と繰り返させないために声を挙げ続けている当事者の人々の姿に触れるにつけ、私は自分自身が中山みきという人のことを長きにわたって「神憑り」になった人であるという目で見ていたその視線自体が、極めて差別的なものだったのではないかということに気付かされてきた経緯を持っている。彼女のことを「神憑り」という名前で呼ぶことは、彼女を刑法39条の対象とみなす行為と実質的に変わらないわけであり、そういうことは「彼女の言葉をまともに聞く気を持っていない人間」にしかやれない所業であると思う。そして実際かつての私は、それぐらい彼女の言葉を「まともに聞こうとしていなかった」わけである。そのことへの反省を込めて、中山みきという人を「神になった人」と呼ぶことはできても、「神憑りになった人」とは絶対に呼びたくないし呼ばせたくないと、今の私は思っている。
私が中山みきという人を尊敬しているのは、彼女が「天啓者」だったからでも「神の代理人」だったからでもない。彼女の言葉と行ないが、立派だったからである。彼女がもし「神そのもの」だったとしても、差別や戦争を肯定するような教えを説いていたとしたなら、私は「バチが当たって死ぬ」ことになろうとどうなろうと、自分の存在を賭けてそれに逆らい続ける以外にない。けれども彼女は「人間がたすけあって生きること」を教え、自らその通りに生きた人だったのだ。「正しい人間の生き方」というものはそこにしか存在しないと思うから、私はそれを大切にしたいと思っているのである。
同様に、私が今ある天理教という宗教のありようを「間違っている」と感じるのは、一部の人が主張しているような「天啓者が正しく継承されていないから」といった類の理由からではない。正しいことというのは誰が言っても正しいことなのであって、「誰それの言ったことだから」それを正しいと認めろと人に迫ったりするようなことは、人に差別を教えること以外の何ものでもないと私は思う。中山みきという人は、すべての人間は「神の子ども」であると教えた上で、「親である神」はすべての子どもの「心の成人」を待ちかねている、と説いたのだ。それにも関わらずいつまで経っても自分たちのことを教え導いてくれる「新たな天啓者」の登場を待ち続けている人たちというのは、「成人する気」がまるでないことを居直っているのでなくて、何だろう。そうした意味において今ある天理教という宗教は、中山みきという人の思いや生きざまを全然「大切にしている」ように思えないから、わたしはこれを認める気持ちになれない。それだけのことなのである。
飯降伊蔵という人は、そのてん、「お道」の歴史の中で中山みきという人の思いを他の誰よりも大切にし続けていた人だったと私は思っているし、その言葉からは引き続き多くのことを学ばせてもらいたいと思っている。しかしながら伊蔵さんに「天啓」が「聞こえる」ようになったのは、飽くまで伊蔵さんが中山みきという人の教えに触れ、その教えについて起きている時も寝ている時もひたすら思案し続けたその結果に他ならないのであって、みきさんのように「紋形ないところから」神の教えというものを人に説くようになった人では、伊蔵さんはない。その事情は飯田さんの場合でも大西さんの場合でも同じだったはずなのであって、言うなればこうした人たちは「みきさんのこと」をひたすら考え続けていたことの結果、みきさん本人が自分のそばにいなくても「みきさんの声」が聞こえてくるぐらいに「精進した」人たちだったのだろうな、と私は思っている。それはそれで疑いなく「立派なこと」だと思うし、またそうしたことは程度の差こそあれ、誰もが自分の人生の中で多かれ少なかれ経験してきていることだと思う。私自身、今ではもう死んでしまった自分にとって大切な人が、今でも自分のそばにいて何かあるごとに大切なことを語りかけてくれているような気持ちになることは、日常的にある。けれども中山みきという人自身が「ひたすら考え続けていたこと」は、「自分のこと」ではなく「自分の課題」についてだったわけであり、その耳(心?)に聞こえていた「声」も、当然「自分の声」ではなく「それとは別の声」だったはずだと思う。彼女のことを本当に知りたいと思うなら、そこについて考えることが必要になってくるのではないだろうか。
中山みきという人がその後半生において、「神性」としか呼びようのないものを実際に身にまとうに至ったのは、決して「立教」と呼ばれる「不条理な出来事」によってある日突然そうなったということではなく、彼女自身が幼い時から41歳という年齢に至るまで心の内側で営々と積み重ねてきた思想的格闘の「精華」であったのだと思っているということを、私は以前に書いた。それでは何をめぐって彼女は「格闘」していたのだろうかということを考えたなら、それは「人間はどうしてたすけあって生きることができないのか」というその一点に尽きていたのではないかと思う。このことは後年の彼女の言葉と行ないのすべてから、そのように判断しうることだと思っている。
そしてその問題意識の上に立って、最初は浄土宗の教えに学び、後には真言宗の教えに学び、彼女が最後にたどりついたのが、神や仏による「救済」を待ち望むのではなく、人間が人間の身のままで最も多くの人々を救済した存在として仏教説話の中で語り伝えられている「転輪聖王」のような存在に「自分がなる」という、「南無転輪王」の思想だったのではないかと私は考えている。本当ならば今回の記事ではそのことについて集中的に論述させてもらいたいと考えていたのだったが、「天啓とは何だったのか」という問題について今の段階で考える機会を作っておく方が順番としては先だろうと思ったもので、今回はそれを優先させてもらった。いずれにしても、「立教」とは何だったのかをめぐる考察は今回でようやく一段落である。次回以降は、「神としての新たな人生」を開始した中山みきという人が、その「南無転輪王」の思想をどのように自分の生き方に組み込んでいったのかということを、改めて史実に即した形で、検証してゆくことにしてみたい。
というわけでこのnoteはまだまだ続きます。
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