ど素人の自分に評価されてこそ価値があるなんて考え方は思い上がりですよ
どうも、センサールマンの山﨑仕事人(お笑い有識者)です。
よく「トマト嫌いの自分でも食べられるくらいこのトマトは美味しい」みたいな言い方ってあるじゃないですか。
これ、本当にそうかな?って思うんですよ。
トマト嫌いの人が食べられるトマトは、トマト嫌いの人でも食べられるくらいトマトの味が薄いだけで、むしろトマトとしての美味しさは弱かったりするかもしれません。
『トマト嫌いでも食べられるトマト』ということ自体は素晴らしいけど、イコール『トマト嫌いの人が食べられれないトマトよりも美味しい』わけではないでしょう。
本当に美味しいトマトはトマト好きな人の方が分かるんじゃないでしょうか。
この『トマト』の部分は別の食べ物に変えてもらってもいいですし、食べ物以外でも構いません。
例えば『お笑い』でも当てはまります。
よくあるのが「普段お笑いは全然見ないけど○○は面白いよね」みたいな言い方です。
これがあくまで「私は○○が好きです」という意味合いで言っているのであれば何の問題もありません。
しかし多くの場合これは「○○は面白いけど他の芸人は面白くない(だからお笑い全般は見てない)」という意味で言われます。
もっと言えば「お笑いに興味のない私が好きな芸人こそ本当に面白い芸人」くらいの上から目線です。
こんな発言をまるで正論のように堂々と(しかも偉そうに)言えるってどういう思考回路なんだろうかと不思議でなりません。
本来なんの説得力もないはずじゃないですか。
だってそのジャンルに対する知識が薄いんですから。
SEXの経験人数一人だけの男が「女性っていうのは~」って語ってるくらいの説得力しかないと思うんですがどうでしょうか。
基本的に(全てではありませんが)、知識のない人でも評価できるものっていうのは“分かりやすい”ものです。
例えばサッカーの試合で派手に決まったシュートは素人でも「凄い!」と分かりますが、小さなフェイントやちょっとしたパスや人知れず動いた位置取りの凄さは知識のある人間にしか分かりません。
知識のない素人が「あのシュートを決めた○○は普段サッカーを見ない自分でも分かるくらい凄い!」と言っている一方で玄人は、「○○がシュートを決めやすいように相手選手を引きつけていた××が凄い!」と影の仕事を見ていたり、「結果的にシュートは決まったけどあのボールに触れることができたキーパーは凄い!」と結果以外のところを見ていたりするわけです。
知識なしに分かる良さなんて表面のほんの一部でしかありません。
もちろんそのほんの一部がダメと言っているわけではなく、一部しか知らないのに偉そうにするのは恥ずかしいよっていうお話です。
念の為に繰り返しますが、「私は○○が好きです」という意味合いで言うのは何の問題もありません。
問題がないどころかめちゃくちゃ大歓迎です。
「普段お笑いは全然見ないけどセンサールマンは面白いよね」なんて言われようものなら嬉しすぎて嬉ションを漏らすでしょう。
ジョ~。