根っこと腸
私たちの腸の中には、前回までに書いたように数百兆もの微生物たちが共生し、マイクロバイオータと呼ばれる腸内生態系を形成しています。
共生生物たちはヒトのからだに必要なビタミンや短鎖脂肪酸などの栄養素を産生し、人体を守る免疫系の調整を行い、ゲノム多様性を200倍に拡大する役割を果たしています。
彼らの集団は脳や肝臓の重さに匹敵する1〜1.5kgの重量を占めており、人体を構成する器官または器官系の一つであると考えている研究者もいます。
マイクロバイオータは分娩や授乳を通して母親から新生児に与えられますが、彼ら微生物はヒトの体内だけでなく、元々地球上のあらゆるところに生息していました。
地球上のすべての生き物は、細菌(バクテリア)と古細菌(アーキア)、そして古細菌が細菌を取り込んで共生することによって進化した真核生物(ユーカリオ)の3つのドメインに分けられ、ウィルスを第4番目のドメインとする見方をしている人もいます。
細菌、古細菌、ウィルスに加え、肉眼では見えない小さな真核生物までを含めて「微生物」と呼びますが、地球上の生物のほとんどは微生物です。
彼らは上空数十キロメートルから地下数百キロメートルまで、地球上のあらゆる生命圏で暮らしていて、水深1万メートルの深海や400℃の熱湯が噴き出す海底噴出口にも古細菌群集があります。
地球には1030個もの微生物が生息しているといわれており、この数は我々の宇宙に存在している星の数の合計より数千倍も多いのです。
地上の植物を育む土の中でも、無数の微生物たちが活動し、土壌生態系を構成しています。
カビやキノコ、酵母や糸状菌などの菌類は、樹木の落枝や落葉、死んだ動植物などを酵素によって分解し、生態系のサイクルに戻す「分解者」として重要な働きをしています。
肥沃な土壌では、スプーン一杯の土の中に800mもの長さの菌糸が含まれているそうです。
細菌類は菌類が分解した有機物をさらに細かくして、微生物たちが生きていくための栄養源を作っています。
微生物たちは主要栄養素と微量栄養素に分解した栄養分を植物の根に供給し、地上の豊かな植生を育み支えています。
植物の根圏には周囲の土壌の100倍近い密度で微生物が集まり、「菌根共生」と呼ばれる “お互い様関係” を作っています。
植物は根を通じて、炭水化物を豊富に含んだ滲出液を根圏に送り込み、有益微生物にエサを与えます。
根滲出液中に含まれているフィトケミカルは、細菌の遺伝子の発現をコントロールし、有益な細菌を根に引き寄せることで、病原体を根に寄せ付けないようにしています。
例を挙げると、マメ科の植物の多くはフラボノイドなどのフィトケミカルによって窒素固定菌を誘引し、そこから成長に欠かせない栄養素である窒素を得ていますが、シグナル分子を分泌することで根粒菌のnod遺伝子群を活性化し、根の周りにバイオフィルムを形成させて病原体から保護しています。
つまり植物の健康のカギは土壌微生物にあり、その土地の生態系の健全性は、植物とマイクロバイオータとの共生と共進化によって保たれているということです。
ところが人間は「近代農業」という産業活動の中で、農薬という殺菌剤を撒くことで土壌細菌を殺し、化学肥料を与えることで土壌生態系を破壊してしまっています。
殺虫剤は「害虫」や「雑草」を取り除くだけでなく、土中の微生物を殺すことで土壌の持っている生物多様性を失わせ、結果としてそこで育つ植物や、それを食べるヒトの生命力をも奪ってしまいます。
また化学肥料は収穫量を増やしますが、自然に育つ作物以上の量を収穫することによって、土壌有機物の消耗を招き、土壌生態系のバランスが崩れて、長期的に見れば植物の育たない土地を増やすことになります。
有機農業運動の創始者でイギリスの農学者アルバート・ハワード卿は、1940年『農業聖典』の中で、「化学肥料によって土壌が汚染されつつあることは、農業と人類にふりかかった最大の災害の一つである」と書いています。
そしてヒトのからだに対しても、近代農業が土壌に対して行なっていることと全く同じことが行われています。
病院ではワクチンや抗菌剤などが頻繁に投与され、家庭や飲食店では人工的な化学物質の入った食品が毎食のようにからだに与えられています。
抗菌薬はヒトの腸内に共生しているマイクロバイオータを殺してその多様性を失わせ、化学食品はヒトのからだが生来持っている免疫や自然治癒の働きを低下させることになります。
植物の根っことヒトの腸は、同じ働きをしています。
どちらも個体とその周りの自然環境との、橋渡しをするための場を形成するのが役目です。
どちらの場においても無数の微生物たちが社会を作ってお互いに、そして宿主と共生共存し、栄養や情報のやり取りをしながら助け合って生きています。
ヒトの腸はいわば、根っこが裏返ったものなのです。
近代科学も近代農業も、細菌やウィルスなどの微生物を倒すべき「敵」と見做し、それらを死滅させることに力を注いできました。
その結果として、農作物は本来持っていた生命力を取り除かれ、それを食しているヒトのからだの生命力までが失われつつあります。
土壌にも腸内にも、多様な生命の営みが存在しています。
そしてその「いのち」の営みを人工的に作り出すことは、現代の人類にはできません。
世界中の人類の知性を寄せ集めた以上の巨大な知性の働きが、小さな土塊の中やひとりひとりのお腹の中で、人知れず繰り広げられているのです。
私たちに必要な行動は、微生物たちと戦って勝利を得ようとすることではなく、それを動かしている偉大な知恵を認めて、その複雑で洗練された働きの一部として、共生していく道を考え実行することではないでしょうか。