創造 ルネサンス Renaissance
ルネサンスRenaissanceはフランス語で「再生」を表します。
古代ギリシャ・ローマ時代の「人間こそが万物の尺度」であるという考え方の復興再生を意味しており、14世紀イタリアの都市国家フィレンツェから起こった復古的かつ創造的な文学、思想、芸術などの運動です。
発祥の地であるイタリアではリナシメントRinascimento(再生・復活・復興)と呼ばれています。
13−14世紀のイタリアでは、ローマ教皇の呼びかけで始まった十字軍遠征の度重なる失敗により、キリスト教の精神的支配力が揺るぎ出しました。
それと共に遠征先のオスマン帝国やビザンツ帝国から、優れたイスラム文化やこの地域に永く温存されていた古代ギリシャ・ローマの文化が大量に流入してきます。
それまで1千年間にわたって続いてきた教会中心の価値観が崩れて絶対的なものではなくなり、一人ひとりが活き活きと輝いて見える古代ギリシャ・ローマの人々のように、人間を中心とした視点で物事を捉え、自由に考えることもできるのだと気づいたのです。
ルネサンスはフィレンツェ生まれの詩人、ダンテ・アリギエーリの詩作と共に始まったとされています。
当時政治家でもあったダンテは14世紀が始まった1301年、36歳の時に政敵によりフィレンツェから追放されます。
その後流浪の旅をしながらも、ダンテは古代ギリシアのホメロスと古代ローマのウェルギリウスが築いた長編叙事詩の正統を継承し、ウェルギリウスがダンテを地獄、煉獄、天国へと案内するという構成で『神曲La Divina Commedia』三部作を完成させました。
ダンテはその当時文語として認められていたラテン語ではなく、フィレンツェを含むトスカーナ地方の俗語で『神曲』を著すことで、後の標準イタリア語の基礎を築くとともに、ルネサンス文学の地平を切り開いたのです。
ダンテに続くトスカーナ詩人フランチェスコ・ペトラルカらは、古代ギリシア・ローマの古典を学ぶことによって、神や人間の本質・本道の理解と実践に立ち返ることを求め、人文主義者(ウマニスタUmanista)と呼ばれました。
ペトラルカは互いに研鑽し合う仲だったボッカッチョと共に、ホメロスの『イーリアス』ギリシア語原典をビザンツから取り寄せラテン語に翻訳しています。
ボッカッチョの『デカメロン』は、ペストが大流行していたフィレンツェを避け郊外に引き篭もった男女の語り合いを散文体で著し、近代小説というジャンルを作り出した最初の傑作とされています。
同じくウマニスタの一人フィチーノは、1453年の東ローマ帝国滅亡によってコンスタンチノープルからもたらされたプラトンの著作を翻訳し、メディチ家プラトン・アカデミーの中心人物となりました。
建築分野では、フィリッポ・ブルネレスキが古代ローマ建築から学んだ構造と空間構成技法を、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の大ドーム(クーポラ)造営などに取り入れました。
二重構造の巨大なクーポラを、仮枠なしで築造する案を提出したブルネレスキに対し、フィレンツェ造営局のメンバーは訝しみその実現性を疑いました。
ブルネレスキは「卵を平らな大理石の上に真っ直ぐ立てることができる人なら誰でもクーポラを建てられるはずである」と言って大勢の職人たちに試させ、誰もできないことを確認した上で、卵の片側を大理石に打ち付け見事に立てて見せました(コロンブスの卵の元ネタ)。
ルネサンス最初の天才建築家ブルネレスキは、幾何学的透視図法(パースペクティヴ)や、重い部材を屋根上に引き上げるための大クレーン及びウインチを考案した人物であるとも言われます。
ルネサンス初期を代表する「万能の人」レオン・バッティスタ・アルベルティは、古代ローマでカエサルやアウグストゥスに仕えたマルクス・ウィトルウィウス・ポッリオが著した現存する最古の建築理論書『建築について』の人体比例と音楽調和の理論に注目し、これを基礎に『建築論』を完成させました。
アルベルティの紹介した人体比例は、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名なスケッチ、『ウィトルウィウスによる人体比例図』に描かれています。
16世紀ヴェネツィア共和国の建築家ヴィンチェンツォ・スカモッツィは、アルベルティにはじまるオーダー理論の集大成として『普遍的建築の理念』を著し、古代から中世、ルネサンスに至る建築について言及しました。
中世ヨーロッパの建築は、石工職人の技でコツコツと積み上げていくゴシック様式が主流でしたが、ルネサンスの建築家によって数学的に根拠付けられた理論体系を持つこととなった建築学は、それ以降幾何学・音楽・天文学などと並ぶ学問分野として広く認められるようになったのです。
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