文化は原初から遊ばれるものであった。ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を読む(2)第2章「遊び概念の発想とその言語表現」&第3章「文化創造の機能としての遊びと競技」
文化の読書会、前回からヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中公文庫版)を読み始めました。ちなみに、講談社学術文庫版もあります(持ってます)。
今回は、「遊び」の言語表現を博捜する第2章と、ある意味で本書の総論的な位置付けともいえる第3章を読みます。
摘 読。
「あそび」「あそぶ」の言語表現:第2章
ここでは、さまざまな言葉を通じて、「あそび」を意味する言葉がどのような背景を持っているのかが考察されている。その一つ一つについて、ここでは列挙することはしないが、古代ギリシア以来の言語を文献学的に考証したうえで、以下のような特徴があることをホイジンガは指摘する(すべてをここに挙げきれていないので、取り零しがあります)。
(1)子どもに関すること
(2)ふざけること
(3)闘う/競技する
(4)跳ぶ、踊る
(5)彼方此方へと動くこと
(6)弛みがあること
(7)笑うこと
このほかにも、日本語での「あそび」「あそぶ」は真剣であるかふざけているかとは別の次元で、何かに囚われずに何事かをしている場合(そこから、敬意表現につながっているとも考えられよう。このあたり、さすがにホイジンガも捉えきれていないようにも思われる)に用いられることがある。
ホイジンガは、「あそび」「あそぶ」という言葉が持つ意味から、とりわけ「闘争」「一定の秩序を持つ営み」というところに重点を置いているようだ。さらに性愛的な側面での「遊び」にも言及しているが、彼はこれを典型的な比喩だとする。
このような整理からホイジンガの「遊び」の定義が生まれたのか、あるいは本における配置のとおり、あらかじめ定義が先にあったのかはわからないが、以下のように定義する。
ホイジンガは、この定義から「あそび/あそぶ」という現象と捉えようとする。いずれにしても、第2章でホイジンガがさまざまな言語における「あそび/あそぶ」を通じて、それが意味するところを掘り探っていこうとするのは、彼の文献学的な姿勢として興味深い。
遊びの闘技的性質:第3章
ホイジンガは、遊びと文化に関してこのように問いを立てている。
つまり、ホイジンガは遊びの根源性を問おうとしているわけである。そして、遊びの側面は儀礼や知識、詩文、国家生活として吸収され、また結晶し、遊びそのものは背景に隠れてしまうことを指摘する。ただ、どんな時代でも何らかの弾みで遊び衝動が動き出し、個人や大衆を駆り立てて、壮大な遊びの陶酔に引きずり込むことがある(126頁)とも指摘する。
そのなかで、ホイジンガが遊びに関して強調するのは「闘うこと」「演技すること」「見せびらかすこと」「挑みかかること」「誇示すること」「それを本当に“しているかのように”佯ること」という基礎因子である。この対立的な性格がもたらす緊張と不安定性とが、遊びにとってきわめて重要なのである。それは当事者だけでなく、時として見物人にも波及する。もし、その遊びが見て美しいものであるなら、その文化に対する価値はその美によって決定されることになる。遊びが個人や集団における人生の切実さというものを高めるのにふさわしいものであれば、それだけ高く昇華して文化になる。その具体的な形式が、神聖な見せ物行事と祝祭に伴って催される競技なのである。
特にこの章で主として対象となっているのは、競技あるいは闘技である。競技がおこなわれるときの真面目さは、遊びの性格を否定するものではない。重要なのは、遊びとしての競技が「それ自体のなかで始まり、かつ終わる一つの完結体であり、その結果いかんは、そのグループにとって必要やむを得ないものである生活過程とは何らかかわりがない」(131−132頁)点である。そして、その遊びはその世界に入ってゆき、遊びの規則を承認した人々にとってだけ重要な、その人だけが関心を抱く事柄なのである。
遊びは闘技的な性格を持つがゆえに、勝つということが重要になる。ここでは、他人よりも擢んでたいという欲望が起点になっている。そして、それは喝采や称賛の言葉で祝福される凱旋とか、名誉、声望、特権といったことが成果として位置づけられる。そのためには、「賭ける」という行為が必要になる。ここで出てくるのがpretiumという言葉である。これは、価値や金、報酬といった意味であるが、語源的には「ものを交換する」「価を計る」といった意味を持つ。ここから称讃という意味合いも含まれるようになった。また、これにかかわるところでは、英語でのwin, ドイツ語でのGewinn, オランダ語でのwinstなどは、経済的交換の分野でも試合や競技の領域に属する言葉である。
ここでホイジンガは興味深いことをいう。
これは、アントレプレナーシップ/企業者的姿勢についての説明と読んで問題なかろう。アントレプレナーシップにおける遊戯性に言及しているのは、きわめて興味深い。いずれにせよ、ホイジンガが「いずれ希望は充たされるだろうと見込みをつけて行なわれる(賭博と相場という)この二種の商取引、協定は、直接に賭け事から発生してきたものである」と述べているのは、彼が資本主義発生の場の一つともいえるオランダ人だからということであろうか。
さて、原始文明における社会生活は、共同社会そのものの対立的・対比的構造のうえに築かれていた。この二元的な対立構造が遊びにも深く根ざしている。それは闘技の場合でもそうであるし、一見すると「闘い」には映らない古代中国(現代でも残っていたはず)における歌垣や相聞詩の応答もまた、好んだ異性と相思相愛になることが「勝つ」ことであったと見ることができる。
たまたま昨夜の大河ドラマで用いられていた『枕草子』102段での藤原公任の「少し春ある心地こそすれ」に、清少納言が「空寒み花にまがえて降る雪に」とつけたやり取りもまた、「遊び」であろう。これは第7章で論じるべきことかもしれない。
この冒険的性格と併せて生じるのが“賭け”である(148頁-)。この「賭ける」という行為あるいは姿勢もまた、「遊び」に内在する一面である。ポトラッチやクラのような贈与循環も顕示/衒示的な浪費や贈与を通じて、自らの優位性を示すことに「賭ける」。当然、これは「勝つ」という帰結を求めている。そして、それは実質的な側面というよりも、名誉や名望にかかわる勝利である。
ここには、敵愾心と同時に協力の精神が相反併存的に存在する。闘技的な性質を持つ「遊び」においては、ほら吹き合戦などのような悪口合戦も生まれる。本来、悪口合戦は自分の徳を自慢して、相手を侮辱するところに狙いがある。一方で、漢字における「譲」があらわすように、相手に譲ることによって、かえって相手(敵)を圧倒するということもある。ホイジンガは、これを自慢試合の倒錯と呼ぶ。これは、日本においてもしばしば見られる。
当然、この悪口合戦は殺人や部族の抗争を引き起こすことがある。それゆえにこそ、古代ゲルマン伝承において罵り合いから格闘に及ぼうとしたときに、それを国王が取り押さえて「その後、彼らの宴は歓楽のうちにぞ終わりける」というような伝承とそれをあらわす詩も生まれる。ここに、平家物語における屋島の合戦での那須与一の扇落としのくだりを思い併せてもよいだろう。
このように、競技は社会生活の主な要素の一つでありつづけてきた。そして、その一つの現れである闘技は祭儀的な性質を色濃く持っていた。古代ギリシアにおける訴訟もまた、言葉の厳密な意味において、真の闘技そのものであった。そう考えると、ソフィストの存在もまた、よりリアルにイメージができるだろう。ソフィストとは、まさに知と弁論術を道具として、その闘技的遊戯性を最大限に発揮することが求められた人といえるかもしれない。
その点で、ホイジンガは「遊び的競争のなかにある文化」というものへ向かって発展していっているという見方を示す(183頁)。この点を、以下のように言う。
そして、この章の冒頭でも言及された「遊び」の後景化が進んでいくことになる。
この先の章では、人間の社会生活の諸側面に潜んでいる「遊び」を掘り起こしていく仕事が展開されていくことになる。
私 見。
今回は、少し補足的なことも摘読のなかに入れてしまった。日本語での「遊ぶ」には、どちらかというとまさにカントが言うところの無関心性のような「特定の目的から自由であること」といった色彩が濃厚であるように思う。「ハンドルの“遊び”」なんてのは、その最たるものかもしれない。
一方で「闘茶」もそうだし、歌合や貝合わせなど、日本に多くある「合わせもの」というべき遊びも「闘う」という側面は多分にある。実際、歌合では勝/負/持という判があって、鎌倉時代の『六百番歌合』では俊成と顕昭のあいだに激論が交わされている。
さらに、長々と引用した137頁あたりのホイジンガの叙述は、アントレプレナーシップを考えるうえで、きわめて興味深い。何か新しいことを企てるということが「遊び」という側面を側面を含み持っているという指摘は、いろいろと展開が可能であるようにも思う。そのあとに展開している議論も含めて、ホイジンガがオランダ人であることを感じさせる。
同時に、アントレプレナーシップを「遊び」と捉える場合、追って登場してくるであろう「規則」をどう捉えるかが問題になってくるかもしれない。というのも「規則/ルール」そのものを変えることが、Entrepreneurial Designの一環になるかもしれないので。
あと、第2章で、ホイジンガが「遊び」からエロス/性愛的な側面を対象からいったん除外しているのが適切なのかどうかは、少し留保が必要な気もする。これを書いている当人がそういった事情の機微にまったくもって疎いため詳しく立ち入ることはできないが、そこにも“規則”がないわけではない。いわゆる“当の行為”そのものではなく、一連のプロセスとして見た場合、ある一定の“きまり”に則った側面というのはあって、それを考えるとなると九鬼周造あたりを参照しないといけなくなりそうなので、それはまた別に考える機会を待とう。
いずれにせよ、この章で「遊び」が持つダイナミズムの一端は示されたようにも思う。さらに考えてみたい。