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あなただけの場所があるから

私の母は専業主婦だ。

兄や私を産む前に仕事をしていたのかは分からない。
とにかく私の知る限り昔も今も専業主婦だ。


2000年。
2人の子供を育てていた母はほとんど毎日ピリピリしていた。

機械の操作や操縦がてんでダメな母は車の免許を持っておらず原付にも自転車にも乗らない。車社会の田舎に住んでいるのに、だ。

だから父が車で連れ出す時以外、母は常に家にいる。スーパーやコンビニにすら一人で行くことはない。ご飯を作っているのでなければ、本を読んでいる。決して誰かに強制されているわけではないのだけれど、家にこもりっきりでさぞかし毎日息がつまっていたのだろう。

父とケンカになると、母はよくこう怒鳴った。


「あんたは自分だけの場所があるからいいよね!」


父は家にいたくなければ会社に逃げられるけど、母はどこにも行けない。外で気分転換できる父に母の辛さは分からないだろう、ということだ。子供の頃、何百回聞いたか分からない母の叫び。


母の機嫌が悪いと家全体の空気が重い。
テレビをつけられる雰囲気でもないから、私はよく自室にこもってTSUTAYAで借りたCDを聞き、現実から逃げた。

当時の小学生といえば宇多田ヒカル派か倉木麻衣派で真っ二つに分かれていて、私は断然宇多田ヒカル派だった。

あの頃の最新曲は、今や彼女の代表曲となった「First Love」。

愛の終わり。まだ見ぬ大人の世界。切なさ。
子供の私にはどれも分からない。
だけど背伸びをしてうっとりしてみたりする。

その曲にこんなフレーズがあった。


You will always be inside my heart
いつもあなただけの場所があるから

宇多田ヒカル「First Love」


…あ、これなら私でも知っている。
いつも母が言ってる言葉だ!

英語も知らなければ愛も恋も知らない小学生は当然思う。

宇多田ヒカルも大変なんだなぁ。
毎日息がつまってるんだ。逃げ場がある人に対して怒ってるんだ。前後の歌詞と何だか噛み合わないけど、きっと辛いんだよね。

私は「First Love」を聞くたび、宇多田ヒカルに心底同情しながら育っていった。




自分でも驚くほど、私はこの勘違いを本当に長いことしていた。

気づいたのは大学生の時だったと思う。

英語を学び聞き取りもできるようになった頃。ふと久しぶりに宇多田ヒカルの曲をあれこれ聞いている時、前述の2行に続くフレーズが耳に飛び込んできた。

I hope that I have a place in your heart too

宇多田ヒカル「First Love」

ん?
place?…場所?



…あ。


え?!


突如、「place」と「(あなただけの)場所」がS極とN極かのごとくガシャン!と脳内で音を立てて繋がった。

ズドンと稲妻が落ちる。
「場所」って、物理的な場所じゃないんだ。

「あなただけの場所があるから」って、「お前には自分だけの場所があっていいよな」って意味じゃなかったんだ?

心の中で相手を想い続けるって意味だったんだ?

英語だけじゃなく、愛も恋も知っている(つもりの)大学生は完全に理解した。宇多田ヒカル、逃げ場がなくて困ってたんじゃなかったんだ。良かった。


正直、人生最大レベルの衝撃だった。

苦しむ宇多田ヒカルはいなかったんだという安堵感。長い間1人で勘違いしていたという恥ずかしさ。そもそもこんな勘違いをしないといけない小学生の私かわいそうじゃない?という自己憐憫。ずっと感じていた歌詞への違和感が消えた爽快感。感情がぐちゃぐちゃになる。

誰かに話したくなったけれど、話としてあまりに地味だし家庭環境を心配されそうだから、この話は心の中にしまい込むことにした。


こういう歌詞の勘違い、誰もが1つや2つはあるんじゃないだろうか。あるよね。万が一私と全く同じ勘違いをしていた悲しい人がいたのなら、強い強いハグを贈りたい。

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やまり
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