旅する猫毛
うちにはもうすぐ10歳になる猫がいる。
ふわふわの淡いクリーム色をした猫だ。
温室育ちのおっとりとした子で、唯一家から出るのは月一の通院時だけ。徒歩で片道15分の道のりをずっとミャウミャウ鳴いて過ごす。おうちに帰りたい、と抗議しているのだ。名前を呼ぶとひときわ大きくお返事する。
野生だったらむやみに鳴いたら天敵に見つかってしまうというのに。この10年、悪い人間に会ったこともなければ危険な思いもしたことがないこの猫は、ペットカートの中で毛布にくるまり無防備におしゃべりを続ける。
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クリーム色の毛は、白やアイボリーの服でも着ないとよく目立つ。
コロコロをかけてもキリがないから黒い服は自然と着なくなった。出かける前はできるだけ気をつけているのだけど、ふいに出先でジャンパーの裾やパーカーの肩に猫毛を見つけることがよくある。夫の服についていれば私がつまみ、私の服についていれば夫がつまみ、風に乗せる。「猫がついてきてるよ」と言いながら。
不思議なことに猫毛を見つけるのは、たいてい絶対にコロコロをかけた場所だ。コロコロをかけたのに外出したとたん猫毛が自然発生的に現れる。きっと別の場所についていたのが移動しただけなのだろうけど、何だか猫からのメッセージにも思えてくる。「さみしいから早く帰ってきてね」と。
家で私たちの帰りを待っている姿を想像し、「早く帰ろっか」と夫と私はどちらからともなく言う。私たちはうちの子が大好きなのだ。
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外出が大嫌いな子なのに、私たちは今までずいぶんと猫毛を家の外に残してきたのではないかと思う。肝心の猫は自宅から半径800m以内でひっそりと暮らしているというのに、その毛はというと、よく旅をしているのだ。
私たちが何の気なしに指を離した後、猫毛はどれだけの時間旅をつづけ、一体どこに行き着くのだろう。
果たして、今までで一番遠くへ旅したうちの猫毛はどこまで行ったのだろうね?と夫に話した。
「ハネムーンで行ったハワイじゃない?」と少し考えてから夫は答える。
その線は濃厚だ。
夫と私が出会ってから行った海外旅行はハワイだけだから。
だけど、もしかしたら。と私は続ける。
もしかしたらハワイでさらに誰かの荷物についちゃって、南米とかまで行ったかもよ?
「たしかに。そうかもしれないね」と笑う夫。
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私は想像する。
動物病院で緊張して肉球にじっとり汗をかくほど臆病なこの子の毛が、ふわふわと遥か地球の裏側まで旅をし世界を股にかけている。あっちこっち、もっともっと色んな国をうちの子は訪れているのかもしれない。
もしかしたらこの子がいつかいなくなった後も、私たちがいなくなった後も、その柔らかい痕跡は世界に残り続けるのかもしれない。私たちが、行ったこともないような所の片隅で。
そう思うと、少しだけ世界が温かい場所に感じられる。
永遠などなくて、愛おしいものがほんの少しずつ毎日指の間からこぼれ落ちていくように感じられる人生だけど、私が知らないだけで、どこかにずっと残り続けるものも本当は多いのかもしれない。何かを失ったからと、いちいち絶望しなくてもよいのかもしれない。失ったのではなくて、目に見えなくなっただけなのだから。
冬は窓辺のソファに座って日に当たる猫。
静かに夢を見る。
時折目を覚ましては目を細め、うんと伸びをして、美しいその目で青い空を眺める。
その空の先、遠いどこかに自分の毛が佇んでいることなど、この子はひとつも知らない。