『クリエイティブ・ラーニング 創造社会の学びと教育』学ぶことの遠い将来を見定める
学びや教育を題材にした書籍に多いパターンは、起こっている問題を分析した後に、あるべき姿や改革案を提案する本である。しかし、本書はそのような種類の書籍とは一線を画し、理論的な背景とそれを具体化したアイデアとその実践で敷き詰められている。
クリエイティブ・ラーニングの前提は、時代の変化である。消費社会(Consumption)、情報社会(Communication)、創造社会(Creation)の大きく3つの時代にわけ、いままさに創造社会がはじまりつつあると考える。創造社会では、創りたいと思うものを自分たちで創れる社会で、それを支えるテクノロジーは3Dプリンターやファブラボの場などである。一部の職種や天才だけではなく、誰もが創造的であり、「つくる」ことに参加している未来を見据えている。
そして、序章ではクリエイティブ・ラーニングを実現する学びの下支えとなる理論が紹介される。中心は構成主義である。構成主義とは、学び手自身が自分の中に意味を構成し、認識や知識を生み出すという考え方である。その他、プログラミング教育の父と呼ばれるシーモア・パパートの構築主義、ロシアの天才的な心理学者ヴィゴツキーの社会構成主義やZPD(発達の最近接領域)が紹介される。一つの物語にまとめられたかのような展開で、難しい内容だが、すっと頭に入ってくる。
また、理論の合間合間で、村上春樹、ミヒャエル・エンデ、宮崎駿、久石譲、村上隆などの創造的な仕事をするプロフェッショナルの言葉が引用される。
理論に興味がない人でも、引用だけを飛び石伝いに読んでも十分に面白い。しかし、その前後にある文章にさっと目を通せば、創造する人たちの発言の意味をより深く理解することができるだろう。
上記の引用で、エンデが語っているように、つくることは発見し学ぶことであると同時に変わることである。これが、クリエイティブ・ラーニングという学びが可能である理由である。さらに、創造とは先が見えない冒険的な要素を含み、決して予定調和的ではなく、想定外と驚きに満ちたものである。そして、この学びの導き手として、共同制作者として、ジェネレーターという役割を提案する。ジェネレーターについては後述する。
そして、対談する4人は、文部科学大臣補佐官兼大学教員、公立校の教員、探究型フリースクールの元校長、認知科学の研究者と立場はばらばらだが、新しい提案を構想し、それを自分たちの持ち場で具体的な実践を行っているという共通点があり、現場のリアリティが伝わってくる。
さらに、編著者が対談相手のことを引き立て、引き出す対談ではなく、著者も躊躇なく、アイデアや実践事例を投じる。お互いに好き勝手なことを言いながら、新たな発見が生まれることを面白がっている。読み手は、圧倒的な知識量を持つ二人と一緒にカフェに座ってしまった第三者になったような心持ちである。「すみません…」とわからないことを質問しようものなら、10倍返しで返答されそうな雰囲気を醸し出している。しかし、これはイベントではなく、本にまとまっているからマイペースで読めることがありがたい。
共通の質問などがあるタイプの対談ではないが、何かとこれからの教育で、批判対象になる「知識」についてはそれぞれで話題になっている。今井むつみとの対談では、知識についてのありきたりな批判を認知科学の視点から主張する。
そして、鈴木寛は俯瞰した視点と大学のゼミでの実践から、ナレッジ(知識)を語る。
市川力は生徒との実践と理論を交えて、学びのなかにおけるコンテンツ(知識)を位置づける。
知識が自ずと巻きついてくる、というのは、市川と著者が共同でつくったジェネレーターという概念・言葉と関係する。
ジェネレーターは知識伝達を促すティーチャーや対話や交流を促し場を円滑にまわすファシリテーターとも異なる。自ら参加者として関わり、たくみにコミュニケーションを誘発する存在であり、新しい教師像として提示されている。ジェネレーターが関わると、学びのなかで起こる発見の連鎖に知識が自然と巻き付いていき、アイデアとして生成されていくのだ。
ページ数は計644ページ、200ページを超えるプロローグと序章は専門書と名言集を巧みに融合させた内容であり、一冊の本として十分に成立する内容である。そこに2倍の分量がある対談、さらにさらに、著者の専門のひとつであるパターン・ランゲージが付録として、305種類が紹介されており、お値段以上のボリュームがある。
そして、遠い未来を見据えている本書の展望と実践は、近視眼的になっている視点を大きく広げてくれるだろう。
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