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JB日記07「ティンパン・アレーとブリル・ビルディング」
先日、ジャージーボーイズは名古屋での公演が終えました。これで残す公演の地は秋田、横須賀の2カ所のみとなりました。
その夜の終演報告ツイートで、ティンパン・アレーとブリル・ビルディングについて書いたことで僕的にも新しい視点を持てたのが面白かったので、それについて書いてみます。
トミーによって、フランキーが初めてステージに立つことになったシーンがあります。そこで歌われるのが ”I can't give you anything but love” という曲。
これは1928年にジミー・マクヒューという作曲家と、ドロシー・フィールズという作詞家によって作られた曲で、その後、ジャズのスタンダードナンバーとして非常に愛され、ジャズの黄金期から現代に至るまでさまざまなミュージシャンによって演奏され続けています。
一説によると、ソングライターのふたりがニューヨーク・マンハッタンの5番街を歩いている時、ティファニーの前にいた若いカップルの会話と様子からこの曲が作られたなんてエピソードもあるみたいです。
1920年代当時のニューヨークは、もちろん大きな経済都市ではありましたが、その一角に商業的な音楽を量産する「音楽横丁」的な場所がありました。
マンハッタン5番街から6番街の間の西28丁目から29丁目に集まった音楽出版社街の一帯を、作曲家兼ジャーナリストのモンロー・H・ローゼンフィールドが
「狭い場所で鳴り響く何台ものピアノの音は、まるでフライパンなどの金属音のように不愉快な音を立てていた」
という意味で「ティンパン・アレー(錫鍋横丁)と名付けて、それが一般化していきます。
ところで、アメリカという国のエンタメの歴史を考えていくと、ヴォードヴィル、特に19世紀半ばから人気を博したミンストレル・ショウ(白人が肌を黒く塗り黒人を演じる寄せ集めコメディ形式の舞台)を機に発展していった流れがあります。
また、19世紀の後半にはヨーロッパやロシアなどから大量の移民がやってきて、アメリカ東海岸の都市部に定住し、都市部の人口が爆発的に増えていく流れもあります。
エンタメ的な舞台の人気によって新しい楽曲が必要になったタイミングで、大量の移民によって音楽業界の労働者も供給される。じじつ、この移民(ユダヤ人やロシア人)が19世紀の終わりから20世紀初めにかけてのニューヨークの音楽ビジネスの重要な働き手になっていきます。
この当時の音楽出版は「ミュージックシート」と呼ばれる、楽譜が主要の商品でした。作曲家と作詞家が曲を作り、編曲家がそれに伴奏を加え、楽譜にして印刷しそれを販売するのです。
その販売されたミュージックシートがニューヨークの各地、あるいは全米各地のミュージックホールや劇場の出し物の間に演奏されたり、もしくは各家庭での趣味の演奏に利用されたりしていたようです。
ティンパン・アレーの主要な作曲家としては「ホワイト・クリスマス」などのアーヴィング・バーリン、「虹の彼方に」のハロルド・アーレン、「キス・ミー・ケイト」や「エニシング・ゴーズ」のコール・ポーター、「アイ・ガット・リズム」のジョージ・ガーシュウィンなどが挙げられます。
また、「王様と私」や「サウンド・オブ・ミュージック」などを作ったリチャード・ロジャース&オスカー・ハマースタインのコンビも、ティンパン・アレーでキャリアを築いた人物です。
そして上に挙げたバーリン、アーレン、ガーシュウィン、ロジャース、ハマースタインはみなユダヤ系です。
この音楽家たちの中に ”I can't give you anything but love” を作曲したマクヒューもいました。
現代の僕らの生活を考えると、流行歌を楽しむために楽譜を買うというスタイルは全く一般的ではありません。サブスクで配信されたものをスマートフォンなどのデバイスで聞くのが大多数の音楽の楽しみ方ではないでしょうか。
あるいはCDを買ったり、レコードを買ったりなんていう方もいるかもしれません。
音楽産業の形態は時代によって変わっていきますし、ニューヨークの音楽シーンもその例には漏れません。
ティンパン・アレーにてさまざまな劇音楽が生産され、そのミュージックシートが全米に流通した時代から進むと、今度はレコードの時代がやってきます。
それに伴ってか、ニューヨークの音楽産業の中心地もマンハッタン西28〜29丁目からブロードウェイ49丁目のオフィス街に移っていきます。そこには11階建ての建物があって、これがかの有名な「ブリル・ビルディング」なのです。
ブリル・ビルディングにはティンパン・アレーですでに成功をおさめていた出版社ではなく、もっと若い音楽出版社が集まりました。アルドン・ミュージックやヒル・アンド・レインジ・ミュージックといった会社です。
ここに所属していたソングライターはたとえば、キャロル・キングとジェリー・ゴフィン、ニール・セダカとハワード・グリーンフィールド、ポール・サイモン、フィル・スペクター、「コーラスライン」のマーヴィン・ハムリッシュなどです。
彼らはティンパン・アレーで生み出されてきた流行歌のスタイルに、もっとポップな若者の感性を持ち込みました。また、50年代に流行しその後排斥されたロックンロールのサウンドを、よりソフトなものに加工して楽曲の中に取り込みました。
前述のロックンロールや、R&B、ブルースなどのブラックミュージックのエッセンスを多大に吸収して、白人ソングライターたちが流行歌を大量生産する時代の象徴となったのがブリル・ビルディングです。
レコードの販売枚数が成功の指標になり、それに反比例してミュージックシートの存在意義は低下していきます。ラジオで曲をかけてもらえるかどうか、ジュークボックスのリストに入るかどうか、テレビショウで歌を歌えるかどうかがヒットの鍵になっていきます。
このブリル・ビルディングのサウンドが世間を席巻するのは1950年代から60年代にかけて。これがちょうどフォーシーズンズたちの下積みから「シェリー」「ビッグ・ガール・ドント・クライ」「ウォーク・ライク・ア・マン」のヒットの時期と重なります。
時代の移り変わりと、「ティンパン・アレー」と「ブリル・ビルディング」の対比。
僕にはこれが、トミー・デヴィートという人間と、ボブ・ゴーディオという人間の対比にも見えてくるような気がします。
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