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彼岸花と美意識の話。
こんにちは!山野靖博です!
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稽古場までの道を歩いていたら、今年初めての彼岸花に出会いました。今年初めて、というのはあくまでも僕が目にしたのが初めてということなので、あるいはもっと早くに咲いていたものもいるかと思います。
彼岸花というのはなんとも怪しい花です。彼岸という言葉がついているから、この世とあの世の境のような雰囲気がするのかもなぁとも思うのですが、しかしそもそもこの世とあの世の境のような雰囲気を感じたからこそ先人が彼岸花と名付けたのだろうし。
いやいや、そんなことはないもっとシンプルに、秋のお彼岸の時期に咲くから彼岸花だろうと、そういう解釈もできるのですが、なにもこの時期に咲き始める花は彼岸花だけではないわけですし、やはりこのニョロリとした茎となんともいえない線を持った赤い花弁の花だからこそ「彼岸花」という名がついたのだと思います。
彼岸花は、花の時期には葉がないのですよね。花が咲き終わると茎が枯れて、その根本から細い葉が茂ってきます。ちょうど、リュウノヒゲのような感じです。
だから、葉の時期もきっと僕は彼岸花の生えている場所を見ているはずなんだけど、でもそのときには「あ、彼岸花が生えてる」とは思わないものなのです。やはり秋になってあの妖艶な赤い花が咲いてこそ、「あ、彼岸花だ」となる。
怪しさ、不気味さ、妖艶さというのは、なにかの表現物にとって必要なものだなと思います。小説でも演劇でも音楽でも、そういう要素のあるものに僕は惹かれます。
芝居をやっている僕自身もなんとか怪しさ、不気味さ、妖艶さを身につけたいと思うのだけれどこれがなかなかうまくいかない。どうにも自分はツルッとした無味無臭の存在のように思えてしまう。
それでも歳をとってきてなんとなく、健康的なだけではない存在感を纏えるようになってきたかなと自分では思うのですが、でもたとえば憧れる俳優の芝居を観にいったり、好きな映画を見返してみると、なんとも自分は足りないなぁという思いにかられます。
さいきんの世の中は写真でもなんでも加工して、少しでも美しいように、アラのないようにというカタチで発信されます。それが広告や芸能関係のものだけでなく、ごくごく一般に生活している人のSNSにも同じなのだから驚きます。いや、むしろ、芸能人のプライベートな発信の方が着飾らないものが多く、一般人の発信の方が徹底的に加工を効かせたものが多いという傾向もあるかもしれない。
綺麗なもの、当たり障りのないもの、傷のないものが重宝される時代なのかなぁと感じます。
茶道や焼き物の世界では、つるりと綺麗に焼き上がった古い中国の官窯の完品よりも、朝鮮の日常雑器の少し歪んだものの方が良いとされる価値観があります。
その美意識でいうと、この頃の加工アリの写真動画文化はどう映るんでしょうか。と思いつつ、加工も行き過ぎればデフォルメに近い効果で、それはそれで織部焼きや縄文土器のような大胆な感性と呼応してるのかもと、いま思いつきました。
綺麗さや美しさも究極まで突き詰めていくと不気味さに肉薄していきますし、そう思えば「怪しさ/不気味さ」への憧れは時代時代に形を変えて、最新の美意識のなかにこっそりと隠れているのかもしれません。
先日道すがらに見つけた彼岸花は、鉄パイプと塩ビパイプのあいだに咲いていました。もっと美しい風景に咲いた彼岸花も探せばあるんでしょうが、これはこれで美しいなと思います。
もっとも日常的で、特に美意識を意図されていないであろう街の片隅に、この世で最も繊細で美しい細工のように咲く彼岸花。この花が咲いてなければ、僕はこの鉄パイプも塩ビのパイプも、写真に収めることはなかったでしょう。
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読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。