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僕、私、俺、についての話。
こんにちは!山野靖博です!
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一人称のこと。
僕の一人称は「僕」です。自分のことを僕と呼び始めたのはたしか中学に入ってすぐぐらいのことだったと思います。
それまでは自分をなんと呼んでいたのか、あんまり記憶にないのですが、たぶん「俺」と呼んでいたのだと思います。たぶんね。
というのも僕は、「自分の一人称を僕にしよう」と明確に決めた記憶を持っているのです。一人称を僕と決めた、ということは、それまでは違う一人称を使っていたということだし、日本の男児が使う一人称は概ね「僕」か「俺」のどちらかだと思うので、だからきっと昔は僕も自分のことを、俺、と呼んでいたのでしょう。
なぜ一人称を俺から僕に変えたかというと、なんとはなしに「俺」というからイメージされる人物像と、自分がなりたい自己像に開きがあるなと勘付いたからだと思います。
どうも、これから自分がなりたい自分には、俺という一人称は似合わないぞ。むしろ「僕」と自分を呼んだ方が、その柔らかさやある種漂う謙虚さがこれから目指す自己像、つまり自分自身がなりたい大人の姿に近そうだぞ、と、どこかで気付いたのでしょう。
その頃の僕には「俺」という一人称が持っている粗野さや強引さ、言ってみれば"男らしさ"のようなものがしっくりこなかったのでしょうね。
自分をどのように呼ぶのかというのは、けっこう大事な問題のように思います。
たとえば『ゲド戦記』では、ゲドと呼ばれる魔法使いはハイタカという自らの真の名前を隠します。何故なら真の名を知られると、その相手に支配されてしまうからです。
また、『千と千尋の神隠し』において湯婆婆は自分の経営する湯屋で働く者たちの名前を奪います。主人公である千尋も、荻野千尋という本名を奪われ、千として働かされることで自我や記憶の一部を奪われかけます。
名前というのには甚大な力があって、その力に自覚的な立場から書かれたのがこのような物語です。
けれどこれは決して物語だけの話ではありません。
僕は山野靖博という名前ですが、あだ名をいくつか持っています。
小学校時代の友人は僕のことを「山ちゃん」と呼びます。中学時代の友人たちからは「山野くん」や「山野」と呼ばれます。
高校時代の一般の友人たちは僕のことを「山野くん」と呼びますが、吹奏楽部の仲間たちは「ヤス」と呼びます。
大学時代の友人は「プリッツ」と僕のことを呼びますし、ミュージカルの仕事現場でもごく一部の人は「プリッツ」と呼んでくれます。
しかし多くの場合、仕事の現場では「山野くん」「山野さん」「ヤス」という風に呼ばれます。
僕の中で「山ちゃん」と呼ばれたときの自分と、「プリッツ」と呼ばれたときの自分は、どことなく違う雰囲気があります。
「山ちゃん」の時には山ちゃん然とした山野靖博像があり、「プリッツ」の時にはプリッツ然とした山野靖博像があります。
それは意図されて作られたイメージではなく、そういう呼び名で呼ばれた時間が自然に作り出したものです。
同じ「自分」でも、どんな呼び名で呼ばれるのかによってその自己認識が微妙に変化するわけです。ということは、自分自身が自分を呼ぶ一人称によっても、きっと自己像は変容していくに違いありません。
さいきん僕は、自分のことを「僕」と呼ぶことに若干の居心地の悪さを感じ始めてきました。35歳にもなって僕、というのも、なんか違うなーというか。
かといって「私」に移行するのもちょっと早すぎる気もするし。あえての「俺」というのも全くしっくりこないし。
人によっては、自分のことを自分の名前で呼ぶということが板につく場合もありますが(「YAZAWA」とか……?)、どうも僕の場合はそうじゃないですし。
そう考えると、英語の I というのは迷いがなくていいなと思います。年齢、性別、職業、立場、状況関係なく、I と自分を示せる強さ。
いま僕は、僕と私の狭間で、一人称が揺れ動く数年を過ごし始めたような気がしています。うーむ。
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