物語の曖昧さをそのままに。
こんにちは!山野靖博です!
写真がなかった時代を想像してみる。写真が存在しなかった世界を。
その時代、物事はすべて流れ去っていくことが当たり前だっただろう。目の前にあるものの、いまこの瞬間をそのままに留めようと思ったら、よく見て、よく感じて、自分の脳裏や心にその姿を焼き付けることしかできなかっただろう。
どんなに美しい風景も、どんなに愛おしい瞬間も、どれもすべてすぐに形を変えて、次の時間へと押し流されていくことを誰もが理解していただろう。
その、過ぎ去っていく束の間の一瞬をなんとか留めようとして人々は、絵を描き、詩を書き、歌にして語り継ぎ、あるいは祈ったのだろう。
そしてもちろん、その「留めたい」という気持ちの先に、写真の技術が発明されたのだろう。
写真はいまや、僕らにとって非常に気軽なものになっている。だって、日々持ち歩く携帯電話にカメラが付いているのだもの。
僕たちは、だから、どんな瞬間も切り取って残しておけると思い込んでいる。その瞬間のかたちや、その瞬間の光や、その瞬間のきらめきを。
ところで、写真の技術がどれだけ発達しようが、AIでリアルな画像を生成できるような次第が来ようが、雲のかたちを完全に捉えられる人はいない。
いま空を見上げて、そこに浮かんでいる雲をつぶさに観察してみても、そのかたちはどこまでも曖昧だ。海の波のかたちや、風が揺らす木の葉たちのかたちや、雨上がりの虹のかたちも曖昧である。
これはとっても大切なことだ。
世界には、曖昧なものがたくさんあるのだ。いや、むしろ、たしかなものは一つもないと言っても過言ではない。
私たちが「揺るぎないもの」と思っている、たとえば大きなビルや、富士山の稜線や、仕事机の直線的な一辺でさえも、じつは非常に曖昧な存在である。
もう一度、雲のかたちのことを考える。雲はそのかたちを刻一刻と変えていく。そのかたちを完全に掴み取ることはできない。
けれど僕たちはそれを写真で撮り、まるで確定したひとつのかたちを現世に留めておけるように思っている。というか「留めておけない」という発想を、そもそも持っていなかったりする。
そんな世界の見方をする人物にとって世界とは、確実に手で触ることのできる何かだ。かたちをしっかりと掴めるなにか、それが世界だ。
「世界はこの手に掴める」という発想でこの世界に立つと、「掴めないもの」は世界に含まれないことになってしまう。あるいは「掴めないもの」は「役に立たないもの」と見なされてしまう。
しかし、本当は、「掴めないこと」こそが世界の本質であるのだし、「掴めないもの」こそ世界の性質をよく映し出す鏡のようなものなのだ。
でも、かたちのないものや曖昧なものを、そのままにしておくのはとっても居心地が悪い。居心地の悪い場所にずっと辛抱して居続けられるような人間は、きっとなかなかに数が少ない。
物語を語り、紡ぐということは本来、かたちがなくて曖昧な行為だったはずだ。
なぜ川から桃が流れてきて、その中から赤ん坊が出てくるのだ。なぜ鬼が当たり前に人間のそばで暮らし、涙を流すのだ。なぜ漁師が亀の背中に乗り、水中のお城へ行けるのだ。
どれも、突拍子もなく、現実離れした、根拠のない物語だ。しかしそれを人々は受け入れていたのだ。「お話」とはそういうものだからだ。
しかし、雲のかたちを留められると信じて疑わなくなった私たちは、物語にさえ、確かなかたちがあると疑わなくなった。
この物語のテーマは。教訓は。作者の意図は。メッセージは。このセリフの意味は。この伏線の回収先は。考察に次ぐ考察だ。
物語を解釈せずに、そのまま、曖昧なまま丸っと飲み込むことができなくなった。理解しないと、落ち着かない身体になってしまった。
雲をぼんやり眺めること。変わっていく空の色合いを見続けること。風の音色の変化に、鳥の鳴く声に耳を傾けること。日ごとの空気の匂いの違いに注意深くなること。蕾が膨らみ、花が咲き、そして枯れていく姿を愛おしむこと。
こういった世界との触れ合い方を知っている人はきっと、物語をよりよく味わうやり方もよく知っている人なのだろう。
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