知識と思い出の話
こんにちは。山野靖博です。
道端で、あるいは人様の家の庭先で、赤い実のついた植物を見つけるとなぜかしら嬉しくなる。そんな性質が僕にはあります。もしかしたら人間誰しも持っている衝動であるかもしれません。
常緑の葉はいくらか緑が深いですから、実の赤色とのコントラストも自然と強くなります。この色と色との相反している緊張感を見ると、めでたいなという気分が生まれてきます。
正月飾りには千両や万両、あるいは南天なんかが欠かせませんし、すると門松の濃い緑や鏡餅のすべらかな白、金銀の水引の輝きなどと一緒に、この緑と赤の配色が記憶されているからでしょう。
クリスマスも赤と緑のイメージがありますが、これはヒイラギの葉と実の色彩からきているのか、あるいはモミの木の横に立つサンタクロースの風景からきているのかどちらでしょうか。
赤と緑のめでたさはこういった文化的記憶から想起されるものだろうなと思いつつ、しかしそういう習慣や風習が一般的でなかった時代にむしろ「この赤い実を飾ろう」と選んだ人の心には間違いなく、めでたさを寿ぎたいという欲求があったのでしょう。
そういう意味で言えば、赤と緑の組み合わせの中には自然に、めでたさや寿ぎという気分が宿っていたのではないかとも考えられます。
ところで冒頭の写真の赤い実。これはたぶん千両か万両なのだと思うのですが、僕はそのふたつを見分ける術を知りません。南天でないことはわかります。ピラカンサスでないこともわかります。
僕が育った家の北側には、細くて暗い通路があり、一年を通して湿っぽい空気が立ち込めていました。進んで入りたい空間ではないのですが時折冒険的なことをしたい気持ちになってその通路に足を運ぶと、そこにはヒョロヒョロとした南天が立っていました。
夏の昼間でもそれほど陽の当たらない場所なのに、それでもその南天は冬になると必ず赤い実をつけていて、冬には北側にある窓越しに部屋の中からそれを眺めては「今年も実がついたな」と子供心に思ったりしていたのでした。南天というのはどうやら強い植物らしいと、その時に学んだのでした。
ピラカンサスはピラカンサともいうようで、その名から推測できる通り海を渡ってやってきた植物のようです。鈴なりどころか、少し怖いくらいの密集具合で巨大な房として赤い実をたわわにつけます。
この植物の名前を覚えたのはいつだったか憶えていませんが、赤い実はすべて南天だと思っていた頃に見かけた赤い房を「南天だ!」と呼んだところ、そうじゃなくてあれはピラカンサスというのだと母に教えられた気がします。
北向きの窓から見ていた南天はいつであっても薄暗い風景とともにその名が記憶されますし、ピラカンサスも上を見上げて見つけた赤い房の重そうな姿とともにその名前が染み付いています。
こう書いてて気づいたけれど、千両か万両かはスマートフォンで調べればすぐわかるのに調べなかったというのは、調べて簡単にわかる情報でそのどちらかを覚えたくなかったということなのかもしれません。
知識というのはどこまでも無機質に身につけようと思えばできてしまうのだけど、そうやって身につけた知識はどこか無味乾燥というか。なんの思い出にも繋がっていない。
けれど、体験や出来事と一緒に覚えた知識というのは、それを思い出すたびに何かの風景や誰かの声や、そういう身体感覚も一緒に湧き上がってくるものです。
正月のめでたさも、クリスマスの嬉しさも、無味乾燥な知識としての赤と緑ではなく、悲喜こもごもいろんな思い出とともに連想される感情ですものね。
道端の、名も知らぬ赤い実を見て、ああめでたいな、朗らかな気分だなと思うことは、その実自体を見ているというよりは、その赤と緑から連想される南天やピラカンサスの記憶を見ているということになるのでしょう。
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