演劇ファンが戯曲を読んだなら・・・
昨日、こんなツイートをしました。
僕ら、演劇を生業にしている人間にとっては「戯曲を読む」っていうのは当たり前のように生活のなかにある行為なのですが、演劇人じゃないとなかなかそうはいかないですよね。
でも、「演劇が好きだ!」っていう人にはぜひ、戯曲を読むっていう方法でも演劇とつながってほしいなと思うのです。今日はそんな話をします。
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僕はもともと、クラシック音楽の世界から舞台芸術に関わりはじめました。
クラシックって、プロとアマチュアの垣根が低く、「聴衆でありながら実演者」っていう人がかなり多く分布している文化土壌を持っています。
よりわかりやすくいうと、「オーケストラが好きだからよくコンサートにいくけど、週に1回は地元のアマチュアオケでヴィオラ弾いたりもしてます」みたいな人がけっこういるのです。
「オペラ観るの好きで、好きが高じて自分も声楽のレッスン通ってます」とか、「ピアノが好きだけど、自分は合唱団で歌ってます」とかね。
で、こういったタイプのお客様は必ず、「楽譜を読む」という行為を経験されています。当然です、自分も演奏しようと思ったら、楽譜を読まないことには演奏できませんから。
なかには、「自分は演奏しないけど、オーケストラスコアを買ってそれを見ながら、いろんな指揮者とオーケストラの演奏を自宅で聴き比べている」というタイプのクラシック音楽ファンもいたりします。超面白い文化だと思う。
もちろん、さまざまな演奏を聞き比べて、そこに表れたパフォーマンスをキャッチして、「ピアニストのAさんのときはこの曲あんなかんじだったけど、今日のピアニストはここが違うな〜」みたいに味わいを比べるのも素敵な聴き方です。
あるいは、何者とも比較せずに、いま目の前にいる演奏家から紡がれる音に没入して、その瞬間を味わい尽くす、みたいな聴き方も素敵です。
でももう一つ、「楽譜を読んでいる」という経験があると出会える音楽の聴き方があります。
自分が感じた曲の印象と、演奏される曲の印象との違いを楽しむ
という聴き方です。
楽譜は、一次情報です。
作曲家が「何か」を意図してこの世の中に創造した、音楽の設計図です。
演奏家はこの設計図を元に、作曲家の意図を読み取りながら、作曲家が求めた「何か」を三次元の空間に音として立ち上げます。このときにすでに、「演奏家の解釈」が音楽に編み込まれることになります。
つまり、僕らが耳にするクラシック音楽の多くは、作曲家が作った一次情報(楽譜)を元に演奏家が立ち上げた二次情報(解釈を含んだ演奏)だということになります。
いいんです。二次情報を聞くだけでも、演奏家による演奏を聞くだけでもいいんです。それだって十分に楽しくて豊かな音楽体験なんです。そこを疑っているわけではありません。
でも、僕自身が音楽家で、僕自身が楽譜を読んだ上で人の演奏を聴いたりすることが多いからわかるんですが、
一次情報を自分で読んだあとで第三者による演奏を聴くの、
めっちゃ楽しいからね!!!!!
これはね、嘘偽りない、本当に思っていることです。
自分が楽譜を読んだことのある曲や、自分自身が演奏したことのある曲を第三者の演奏で聴くの、めっちゃ楽しいんです。
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これとおんなじことが、演劇でも言えると思うんですよ。
演劇って、台本がないと上演できません、ほとんどの場合。
台本や戯曲が、クラシック音楽にとっての楽譜です。つまり一次情報。
この一次情報である台本や戯曲を、演出や俳優や技術スタッフが読み、咀嚼・解釈して、「舞台上にどのようにその世界を立ち上げるか」を考えるわけです。一所懸命考えるわけです。
お客様はこの「舞台上に立ち上がった世界」のところをご覧になられるわけで。つまりこれは二次情報です。一次情報を元にそのカンパニーが解釈を加えた二次情報を、演劇のお客様は観てくださっているわけです。
これだって、十分に面白いことなんですよ。これだけで相当エキサイティングな体験です。だから、それでいいっていったら、まあ、それでもいいんです。
で、この二次情報を見比べたりして、楽しんだりするわけですね。
ウィーン版のエリザベートはこうだけど、宝塚版はこうで、東宝版だとこうだ、とか。
昔のレミゼはこうだったけど、新演出になってああなって、でも今年は今年でこう違ってきている、みたいな。
これも、もちろんめちゃめちゃ楽しい観劇の仕方なんですよ。
でももしかして、演劇ファンも戯曲を読むことが自然なことになったら、もっと面白い演劇との関わり方が増えていくんじゃないかなって、そんな風に思うのです。
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もちろん、上にあげた2つの作品は、「戯曲を読んでほしい」っていう主張にとってはふさわしくありません。なぜなら、上演用の完全な台本が一般には手に入らないから。
全曲版のCDに歌詞カードがついていたりするし、有名な曲を抜粋した楽譜は出版されていたりするので、「完全ではない一次情報」を手に入れることは可能ですが。
でも、古典の演劇作品だったりすると、戯曲は普通に本屋さんで買えたりします。
7/30から池袋の東京芸術劇場で開幕する「お気に召すまま」は、シェイクスピアの名作喜劇なのでもちろん出版されています。翻訳は違うんだけど。
神奈川・新潟・福島をまわって、7/31から東京公演が始まる「フローズンビーチ」もケラリーノ・サンドロヴィッチ作品は大人気ゆえ、ありがたいことに戯曲が出版されています。
来月8/9から紀伊国屋サザンシアターで上演される「人形の家 Part2」もルーカス・ナスによって書かれたペーパーバック版がアマゾンで買えるみたいですし(英語のままだからハードル高いけど)
続編の元となっているイプセンの「人形の家」は、本屋さんでも簡単に買えます。
ついこのあいだまで僕は、アメリカの劇作家ジョン・パトリック・シャンリィによって書かれた「お月さまへようこそ」という戯曲を自主公演にて上演していたのですが、
「ふだんは読んだりしないんですけど、今回は観劇前に、戯曲を買って読んできました」
というお客様がちらほらいたのです。僕は、それがとっても嬉しかった。
僕は「お月さまへようこそ」という作品が大好きだったので、その大好きな作品を上演によってみなさんとシェアできることに深い喜びを感じていました。
でも、そのシェアの方法が、「僕たちの思ったかたちを一方的に投げかける」に終止せず、「戯曲(一次情報)を読んだことで、自分のなかに自分なりの像があるお客様に、僕らの思いを提示する」というかたちをとれたことに、さらなる喜びを感じたのです。
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日本の演劇を支える観客システムは非常に独特です。
看板役者を掲げる歌舞伎の観劇システムから発展してきているので、「スターを観にいく」という向きが強い。
また、アイドルによって盛り上げられてきたエンタメ文化も相まっているので、「イケメンや美少女を観にいく」といった観劇のスタイルも人気です。
新聞劇評は出演者とあらすじ紹介でほぼ終わってしまうので、「作品構造や作品テーマを解説し、それが有効に表現されていたかどうかを指摘する」という機能は完全に破綻しています。
けれど本来演劇の場においては、戯曲がもっとも大切にされるべきだと、僕は思っています。
お客様にも、「戯曲」の存在をより身近に感じてほしいのです。
戯曲を読み、一次情報に触れるからこそお客様の中に立ち上がる「自分の思うその戯曲という像」と、舞台上で僕らが必死になって立ち上げる「演劇としての像」の、その違いや、一致性みたいなものを味わう、そんな楽しみ方も広がってほしいのです。
もちろん、そういう楽しみ方をしてらっしゃる方はすでにたくさんいるでしょうけれど。
だからこそ、日本における観劇スタイルの
・人を観にいく
・劇団を観にいく
みたいなスタンダードな潮流のなかに
・戯曲を読んでから観にいく
みたいなものが加えられたら、超面白くなるのにな、と思います。
やる側は、超大変になりますけどね。
戯曲を読むことが当たり前になったお客様は、その持ち前の観察力と感受性で舞台上の嘘を見抜くでしょうし。今まで以上に知識を得た観客は、中途半端なパフォーマーを評価しないでしょうし。
さまざまな虚飾によって誤魔化せていたものも、誤魔化しがきかなくなるでしょうし。
そんな状況、僕は「めっちゃええやん!」と思うんですけどね。
けっして、粗探しをさせるための道具を得るために戯曲を読んでほしい、と言っているわけではありません。
むしろ逆です。
演劇という大きな営みにおいて、ごくごくわずかなポイントを受け取るだけの存在としての観客であることから、より能動的に演劇に参加する観客になるための糸口を提示したい、ということなのです。
てか、それよりなにより
演劇好きだ!!!って思ってるあなた、
戯曲読むようになったらもっと面白くなりまっせ!!!
ということです。
みんな、こっち側きちゃいなよ!!!!っていうお誘いです。笑
ストレートプレイファンのみならず、ミュージカルファンも、楽譜読み込んでから観劇します!!!!みたいな人が増えてくると、面白いと思う。
青ざめるミュージカルアクターも増えるかもしれないけれど・・・苦笑
でもさ、やっぱり、より面白い芝居を観たいじゃないですか。
お客様が求める品質が高くなれば高くなるほど、僕らもより研鑽を積んでいかなければならないわけです。
いまの日本の演劇界も、世界に誇れると思うけれど、もっと楽しい演劇界がぜったいあるはずなのだ。
読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。