あの「ロマ」についての話。
先日千穐楽を迎えた「グレートコメット」というミュージカルの舞台に、僕はアンサンブルという役割で出演していました。
「アンサンブルってなんだ?」とお思いの方は、この記事をどうぞ。
で、今回の舞台、「山野さんの役作りって、あれ、どうなんだろう?」みたいな質問をいただくことが多くてですね。
せっかくなので、「今回山野はどんな思いを持って役作り(的なこと)をしていたのか」を書いてみたいと思います。
「役者なんだから、舞台上で表現したものがすべて、それ以上の説明をするなんてカッコ悪いぞ!」みたいなお叱りも、もしかしたら聞こえてきそうな気がしないでもありませんが、
僕自身は舞台に立って全力でパフォーマンスをすることも好きだけれど、それについてやその他のことについて自分で考えたことを文章に書くことも、表現として同じくらいに大好きなので書いてみます。
もしも、俳優の語るそういった内容に興味がおありでない方がいらっしゃいましたら、ここでそっとページを閉じてくださいませ。
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「グレートコメット」に関わっていた期間、僕がいちばん大切にしていたのは「多様性」というキーワードでした。
なぜならば、作品自体がさまざまな形で多様性を内包していたから。
まず、音楽の観点からいえば、あらゆる形式の音楽を盛り込んだスコアの存在が印象的でした。ロシアの民族音楽の色彩、クラシックの現代音楽的要素、オペラのエッセンス、ジャズの香り、EDMのインパクト。
弦楽器と木管楽器が主体となっている生オーケストラと、シーケンサーによる電子音のブレンド。
そういった多種多様な要素が同じ作品の中で共存し得るということへの驚きと興奮はすさまじいものでした。
戯曲に書かれている言葉自体も、1人称のセリフと3人称のセリフが混在していて、役の視点も観客の視点もさまざまな視点を行き来します。そこから生まれる劇構造の多様性もある。
また、「イマーシブ」という形式をとっているから出現する、劇空間の多様性もありました。
なにより、劇中に登場する人物にも多様性が。
劇の中心として登場する人物は基本的に貴族ですが、トロイカの御者のバラガは貴族階級には属していません。コサックです。
そして、アンサンブルが担う人物たちを演出の小林香さんは「ロマたち」と設定してくださいました。
ロマはまさしく、社会的ヒエラルキーの外にいる存在。
この、「貴族・ロマ・コサック」が劇中に登場し、入り乱れ、共に酒を飲んだりヒロインの誘拐を企てたりするわけです。
もうね、多様性も多様性。ものすごい混在具合。
基本的に、西ヨーロッパの貴族社会に於いては、貴族とロマが一緒に酒を酌み交わすことなんてありませんし、一般市民でさえも貴族のフィールドに足を踏み入れることはほとんどできません。19世紀当時。
それなのに、ロシアという土地では、それらが混じり合うことができた。
そんな「多様性要素」がモリモリの作品において、演出の香さんがさらに劇構造の外枠として提示してくださったのが「コロス」というキャストの存在の仕方でした。
「コロス」という言葉、ご存知の方も多いと思います。
もともと、「古代ギリシャ劇」のなかで生み出された演出形態のこと。古代ギリシャ劇というと、紀元前550年ごろから紀元前220年ごろの出来事なので、かなーり長い歴史を持った演劇上の概念です。
古代ギリシャ演劇では最大3人の演者が登場人物を演じる形式をとっていたのですが、それ以外にも「コロス」と呼ばれる合唱隊のような存在が、物語の進行上とても重要な役割を担っていました。
「コロス」は物語のなかの登場人物を演じるというより、
・登場人物が劇中で語れなかった心情や秘密
・鑑賞者を助ける劇の背景の説明
・シーンの要約や劇のテーマの注釈
なんかを、歌や詩の朗読といった形をとって語るような存在でした。
つまりコロスは、演劇のなかで、登場人物がいる空間からはひとつ乖離した「メタ空間」的な階層にも存在しつつ、物語の進行に重要な要素を提供していたのです。
ちなみにですが、たくさんの人が集まって、声を合わせて歌うことを「コーラス」といいますが、この「コーラス」の語源となったのが「コロス」です。
香さんから提示されたそんな「コロス」という要素。
しかも、アンサンブルだけではなく、物語の中心となるメインのキャラクターを演じるプリンシパルさんたちにも、場面によっては「ここはコロス的に」という指示があったりしました。
つまり、小林香演出による「グレコメ」に於いて、その劇構造の外枠を担う「コロス」という要素はとっても大切なんだなー、というところから僕の演劇へのアプローチはスタートしたのです。
非常に面白いスタート地点でした。
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作品の重要な構成要素である「多様性」、そして、香さんの提示してくれた「コロス」という要素。
この2つを混ぜ合わせてみて、僕がたどり着いたのは「一貫した特定の人格を演じ続ける必要はないんだな」、そして、「その瞬間に"ただひとりの個人"である必要もないな」という2つのアイディアでした。
(リアリズムを土台にした多くの演劇では)一般的に、登場人物は「その人個人」というひとつの人格と人生を持っています。
ドラマとして途中で記憶喪失になったり、あるいは多重人格(ジキルとハイドみたいな)だったりすると、「ひとつの人格と人生」という状態からは逸脱しますが、それは比較的稀な現象です。
ですが、これはリアリズム(=写実主義)演劇の原則であるので、古代ギリシャ劇的な「コロス」に当てはめる必要のないルールです。
ということでまず、劇中ずっと同じ衣装は着ているけど、その人物がずっと同一人物であるというルールはまず取っ払おう、ということにしてみました。
かつ、場面によってはその人物が「ただひとりの人生だけを表している」というルールも取っ払っちゃおう、というチャレンジもしてみました。
「え、まって、それどういうことなん???」
読んでくださる方の、困惑した顔が目に浮かぶようです。笑
頑張って、説明を試みてみます。
「ずっと同一人物であるルールを取っ払う」というのは、比較的簡単に理解していただけるかと思います。
「マーリャ家のメイド」と「決闘を目撃するクラブの客たち」と「大彗星を見上げる人」は、同じ人じゃなくてもいいということです。
たしかに、メイクも、髪型も、衣装も(ベースは)変わらずですが、だから同一人物である必要性はない。その表層の内側の身体は、別の人である(可能性もある)ということです。
たとえば僕らの日常の中でも、制服、というやつがあるじゃないですか。
あれは、みーんな同じ服を着ているけれど、それを着ている中身の人間は、それぞれまったく別物ですよね。あれと同じです。
これ、自分でもわかってるんですけど、観てくださるお客様にはかなり理解しづらいチャレンジですよね・・・苦笑
けれど、明確に理解していただけなくてもいいかなという前提でやっていました。
なぜなら、戯曲の流れや構造を考えたときに「全てを同じ人物として演じる」方が、場面場面で求められているアンサンブルの機能を成立させるのが難しかったからです。
だから、ひとつめの「ずっと同一人物であるルールを取っ払う」というチャレンジは、ドラマのシーンひとつひとつを成立させるためにも必要なチョイスだった、ということでもあります。
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さて、ふたつめのチャレンジ。
場面によってはその人物が「ただひとりの人生だけを表している」というルールも取っ払っちゃおう
というやつ。
これは非常に「コロス」的な要素が強い選択だったかもしれないな、と振り返って思いました。
つまり、そのシーンにいるひとつの身体に複数の人生の可能性を同時に存在させよう、という試みだったからです。
もう少し突っ込んで書くと、「髪の逆立て、腰に青い布を施した衣装を着ている長身のロマ」という身体に「1812年のロシアの社会」を内包させようという試みでした。
僕たち、一般的に生きていると、ひとつの身体にはひとりの人生が内包されています。
中には、複数の人格や人生をお持ちの方もいらっしゃるでしょうけれど、マジョリティとしては「ひとつの身体にひとつの人生」です。
でも、今回僕がやってたのは「演劇」ですから。「演劇」ではありとあらゆる状態が許容されます。それこそ、現実社会では到底信じられないようなことでも、演劇の世界においては受け入れられたりします。
ということで僕は、「ひとつの身体に、多様生を内包した社会」という身体生を目指してみました。
社会、なので、そこにはもちろんさまざまな人が生きています。
大人、子供、青年、少女、老人、軍人、病人。
あるいは、ロマ、貴族、クラブで騒ぐ若者、プロの使用人、オペラ劇場の案内人、大きな悩みを抱えた人、楽観的な人、娼婦、哲学者、詩人、噂好きの嘘つき。
社会には、本当に、ありとあらゆる人々が生きています。
その、ありとあらゆる人々のなかから、誰かひとりを選ばずに、その、ありとあらゆるを内包している社会をそのままごっそり、自分の身体に乗っけて、各シーンを演じてみようと思ったのです。
「その人個人」に限定せずに、劇中のリアルの外にある「社会」というメタ階層にも同時に「いる」ようにした、ということ。
これ、伝わりますかね・・・・・・・・?
なので、もしかしたら場面によっては、男らしさみたいな動きが前面に出たかもしれないですし、別の瞬間には中性的な妖艶さが際立って伝わったかもしれません。
たぶん、ご覧いただきながら受け取っていただいたすべての要素が、正解なんだと思います。
「役を規定せずに演じる」というのは、とっても面白い挑戦でした。そして、その挑戦を受け入れてくれる懐の深さとのりしろの広さが、この作品にはありました。その深さと広さはもちろん、演出家の小林香さんの心にも。
上に書きましたが、僕自身は、なにかを「規定」して演じようとはしてませんでした。その結果、ふにゃふにゃ動いたりする瞬間や、動物のように吠える瞬間や、カクカクと大股で歩く瞬間など、さまざまな瞬間が生まれました。
規定しなかったのは、動きだけではありません。
役のジェンダーについても、特に規定しませんでした。
僕らが生きている現実社会でも、女性的な動きをしている男性がすなわちゲイということではないように。男らしく見える男性が全員すなわちストレートではないように。もちろん、女性の体を持った人=女性、男性の体を持った人=男性、でもないように。
僕が選ぼうとしたのは、そのシーンごとに相応しい「身体性」(「身体」ではない)だけでしたし、その身体性の向こうにあるそのキャラクターの人生については、実のところ僕自身も把握してなかったりする領域が多かったです。
だからこそ、そんなチャレンジをしてみたからこそ改めて気づきました。
表面に見えている振る舞いや装いを見ただけでは理解しきれないような奥行きと幅を、人はそれぞれに内包しながら生きているんだな、と。
人生に絶望して陰鬱な生活を送っているピエールの心の奥にじつは、生と愛への憧れと渇望があったように。
天真爛漫に無垢に、溌剌と生きているナターシャの胸の奥底に、ひとときの愛に赤々と燃え上がる情熱が潜んでいたように。
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もう、本当に、舞台上でのチャレンジを芝居という形ではなく、こうやって文章という形で伝えることの難しさとカッコ悪さは自分でもよくわかっているつもりです。
でもだからって書くことを我慢できないのが僕、っていう・・・。
また、ここまでお付き合いいただいた皆さまはすでに理解してくださっていると思いますが、このアプローチの仕方はあくまでも僕個人が選択した方法でありまして。
「グレコメ」に携わっていた他の役者の皆さんは、それぞれにまた別の視点、別の方法論で作品や役に向き合っていらっしゃったと思います。
さまざまなバックボーン、さまざまな考え方を持ったパフォーマーが集まり、それぞれの持ち味を最大限に持ち寄って組み上げたからこそ、「グレコメ」の舞台世界にも豊かな多様性が湛えられたと思いますし。
こうやってあらためて振り返ってみると、このやり方がクリティカルな解だったのか、検証したくなりますね。
今回の舞台、いまの僕の力を踏まえれば、これがベストだったと言えますが、これから先の人生のどこかで振り返ったときには、もしかしたら別の答えがあるかもしれません。
本番が終わってしまったいま、「他の方法」を試すことができないのは歯がゆいですが、この経験を糧に、これからの舞台人生もワシワシ歩いていこうと思います。
そしていつかまた、「グレコメ」の世界に携わることができたなら。
「そのときの自分はどんなチャレンジを選択するのか」も、楽しみにしていたいなと思います。
あーーーーグレコメ面白かったーーーーー!!!
読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。