突然歌い出すのだミュージカルは、という話。
こんにちは!山野靖博です!
ミュージカルをめぐる諸問題の中で、ときおり話題になるのが「ミュージカルは突然歌い出す」というやつ。
これはもはや「あるあるネタ」というか一種の固定化されたミームであると同時に、近年盛んに行われているミュージカルについての学術的研究における重要なトピックでもあります。
学術的研究での扱われ方はひとまず置いておいて、世の中、特にSNSの世界に「ミュージカルは突然歌い出すからさ」という話題が浮上してくるときは大概、否定的なニュアンスを伴って語られることが多くて、それに対してミュージカルを愛する人々が傷ついたり憤ったりするのもお決まりな流れです。
ミュージカルの「突然歌い出す」問題について否定的な立場の人は、現実世界では突然歌い出したりしないから不自然だ、とか、大の大人が外国人の扮装で歌ったり踊ったりして恥ずかしくなる、みたいな語り口が多いと僕は理解しているのだけど、まあ、そう思われる気持ちも理解できないではない。
これはほとんど当人の「好み」の問題である。
たとえばいま目の前に激辛料理があるとして、辛いものが好きな人はこれを「美味しそう!」と思うだろうし、反対に僕みたいな辛いのがそれほど得意ではない人間にとっては「食指が動かない」という事態になる。
激辛料理にとって「辛い」という点は非常にユニークな、激辛料理を激辛料理たらしめるのに欠かせない要素であって、その個性を受け取る際に「好き/嫌い」の反応が出てくるのは至って自然なことだ。
世の中には激辛料理を好きな人がいてもいいし、嫌いな人がいてもいい。しかしそこで「激辛料理を食べないだなんて愚かだ、人生の9割を損してる」とか、「激辛料理を食べるやつの気がしれない」とか言い始めるとこれは、穏やかでない論争の段階に進んで言ってしまう。その過程で誰かが傷ついたり不快な思いをしたりする。
もっとも、ある種の意見表明で誰かを傷つけてしまうというのはままあることであり、「私が傷ついたからその言説は取り下げてほしい」と主張するのは表現の自由を著しく損ねる態度であると僕は理解している。同時に、自分の主義主張を発信するためならば誰かを貶めたり傷つけたりすることも厭わないという態度もまた、おとなげない振る舞いであるとも思っている。
話はミュージカルに戻って。
ミュージカルの登場人物が劇中で突然歌い出すのは、ミュージカルをミュージカルたらしめるための重要な要素であり、基本的な仕様である。踊らないミュージカルは存在するが、歌わないミュージカルは(おそらく)存在しない。
(そうは言ってみたものの、「踊り」についてもどこからがダンスでどこからがダンスじゃなくなるのかという問いもあるので、踊らないミュージカルもそもそも存在しない、という主張も成り立つ。この辺は考えると本当に楽しいトピックだがそれは別の話として)
ミュージカルというのはその舞台芸術の形式に於いて「登場人物が歌い出す」という現象からは逃れられないのであるし、そういう意味では「何故彼らは歌い出すのだ?」と尋ねてみてもあんまり意味はない。
「ミュージカルというのはそういうものだからだ」で片付いてしまう問いだからだ。
ところで、世界各国の舞台芸術を見てみても、逆に歌い出さないものの方が少ないくらいだ。日本固有の演劇として名高い歌舞伎や能も、歌と不可分に発展してきた。
逆に、歌わない舞台芸術とはなんだろうと考えてみるとたとえばバレエが挙げられるが、これはこれでセリフは喋らずに踊ることで物語を進めるというユニークな形態だ。
他に挙げられる歌わない舞台が主に、現代口語劇とかリアリズム系の戯曲上演だったりするのでむしろ、リアリズムが普及する近代以前は舞台の上で歌ったり踊ったりすることはごく当たり前のことだったろうと推測する。
「ミュージカルは突然歌い出す」というトピックについて、肯定的な態度を取るにしろ否定的な態度を取るにしろ、その好き嫌いの根拠には「私にとってそれが自然だから」という価値判断があるように思われる。
「突然歌い出すのは不自然だ」と主張する人は、「だって普通、日常の中で突然歌い出すことなんかないでしょう?」と言うだろうし、「突然歌い出すのに違和感はない」と主張する人は、「だって私たちの日常生活でも、突然歌い出すことってあるじゃないですか!」と言う。
このふたつの主張は正反対だが、その好き嫌いの土台としては「歌い出すことは自然だ/不自然だ」という実感が根拠となっている。
これは、言い換えれば、「私にとってのリアル」の像の違いが、突然歌い出すミュージカルの登場人物の挙動を「自然」あるいは「不自然」と感じさせる背景として機能しているということだ。
これをさらに推し進めて考えるなら、突然歌い出すことが「不自然だ」と思う人も「自然だ」と思う人も、どちらも共通して、「(私にとっての)リアル」であることが心地よいという前提を持っているということにならないか。
ところで、僕はこんな風に思う。
ミュージカルの歌が、リアルである必要は、ないんじゃないの?
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ミュージカルの歌はリアルであるべきか。ミュージカルの歌は芝居の延長線上のように歌われるべきか。ミュージカルの歌は芝居と地続きの"芝居歌"として歌われるべきか。
コアなミュージカルファンやミュージカル出演を生業とする俳優たちにとって、この問いに対する答えはおおむね決まっているように思う。
当然、すべてYESだ。
ミュージカルの歌はリアルに歌われるべきだし、芝居の延長線上に存在するように歌われるべきだし、つまりそれを芝居歌というのだ、と。
でも僕は、少し違う答えを持っている。
ミュージカルはなにも、リアリズムに立脚する必要はない。全然リアルじゃない流れで歌い出したっていい。歌と芝居が分断されたっていい。
ミュージカルの芝居やセリフやオーケストラ音楽や歌、はたまた大道具、小道具、衣装、照明など、あらゆる構成要素が調和し合って、リアリティのある劇世界を作るべきだという考えを目指して創造されるミュージカルを「統合ミュージカル」と呼んだりする。
この「統合ミュージカル」はミュージカルという"リアルでない"表現形式を、どうやって"まるでリアルかのように"見せるかという試行錯誤の上に成立したスタイルだと、僕は思っている。
舞台芸術とはリアルではないものなのが当たり前だった時代に産声をあげたミュージカルが、リアリズム演劇の台頭によって観客数の減少などで窮地に立たされたとき、どうにかしてリアリズムに近づくための方便が「統合ミュージカル」という考え方でありスタイルだ。
だから当然、そもそもの始まりからして、「統合ミュージカル」のやり方だけがミュージカル上演の最適解ではないのだ。
そういう思いで日々、ミュージカル製作の現場に携わっていると、日本のミュージカル産業の人たちも大分、「統合ミュージカル」的哲学を手放しに崇めちゃってるな、というか、リアリズムに偏った見方でミュージカルを見ているなという感想がある。
「統合ミュージカル」の考え方や、リアリズム的演劇アプローチはたしかに便利だし、観客に違和感を与えることが少なくなる。それがいいという意見もあるだろう。
でも、ミュージカルというのは演劇という大きな海原に浮かぶひとつの島だし、そう考えると演劇というのは長い歴史の中で観客にどう「違和感を与えるか」を考え続けてきた営みであるという側面もあるはずだと思い当たる。
ならばなぜ、ミュージカルは観客に違和感を覚えさせることを目指してはいけないのだろう。
僕もある程度大人になったのでわかっている。リアルなミュージカルを目指すこと、それすなわち、観客に違和感を覚えさせないような演劇を作ることを目指しているのではない、ということを。ミュージカル作りの現場にいる全ての人は、少しでもいい作品を作りたいという熱い思いを持って日々奮闘している。
ただ、それはそれとして、演劇という表現形態はとっても多様で多彩で、深い深い懐を持っているのだから、そこに属するミュージカルにも、その多様さや多彩さ、複雑性、居心地の悪さ、悪意などなど、そういったものが織り込まれていくべきなのではないかと、思う。
ミュージカルは突然歌い出す。たしかにそうだ。それのどこがいけないのだろうと思う。そうだよ、突然歌い出すんだよ、ミュージカルは。ときにはリアルに。ときにはナンセンスに。ときにはブレヒト的に。ときには歌舞伎的に。
「ミュージカルは突然歌い出すから、バカみたいだよね。不自然だよ」と言われたときに、「そーなんですよー、突然歌い出すんですよねぇ、ヤバいっすよねぇガッハッハ!」と笑い返せたらいいなと、僕は思う。
それで、たとえばさらに追い討ちをかけて「なんでそんなバカなことやってるの?」って聞かれたとしたら、「人生、バカになりたいときもあるじゃないですかワッハッハ!」と答えよう。
ミュージカルではなぜ、登場人物は歌い出すのか。この「WHY」を考えることは楽しい。僕も、その問いについてなら無限に考えることができる。
しかし、この「WHY」の先にはさらに楽しい問いがある。つまり、ミュージカルで歌い出すときにどうやって歌い出すのか、という問いだ。「HOW」である。
この、どうやって、を考えるのがとてつもなく楽しい。その問いへの暫定的答えこそが、そのとき上演するその作品にとっての、演出的な肝になるからだ。
歌い出すまでの芝居の道筋をリアリスティックに、リアリズムの手法で編み上げることもできる。スタニスラフスキー的にアプローチしたり、メソッド的なやり方を試してみたり。
はたまた、ブレヒト的な異化効果の手法を狙ってみることもできる。ナンセンス劇的なエッセンスを織り込むこともできる。歌舞伎的な型の力を借りることだってできる。
あるいは、ありとあらゆる演劇手法を混ぜ合わせて歌い出すことだって、想像の上では可能だ。それを当意即妙に自分の身体で実現できるかどうかは別として。
ミュージカルにとって「歌い出す」ことは大切な要素だし、「歌い出す」ことこそミュージカルを特別な舞台芸術にしている大きな要因でもある。
つまり「歌い出す」ことには強い強いエネルギーと魅力があるのであり、だからこそこの個性を好んだり嫌悪したりする人が出てくるのだ。自然の成り行きである。
ミュージカルについて考えることは楽しい。それを構成する要素が多種多様だし、それぞれが微妙に、また複雑に影響し合っているからだ。ミュージカルは台本だけを抜き出して論じることはできないし、楽譜だけを取り上げて理解し切ることもまたできない。
ミュージカルを愛する人、ひとりひとりにその人だけのミュージカル観があるはずだし、だからこそひと口にミュージカルと言ってもいろんなタイプの作品が作られ続けることになる。
僕はミュージカルに携わる人間として、「リアルに歌い出すんだぜミュージカルは!」というところだけに留まらないでいたいと思う。不自然に、唐突に歌い出すミュージカルだって、演劇的には成立するはずだもの。
そして、そういう整わない、わかりやすくないものがたくさんある芸術の方が、断然に格段に面白いはずだもの。
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