「青葉茂れる桜井の」1~6を現代語訳してみた
20日のdiaryの続き。「桜井の訣別(わかれ)」の詩は文語である。明治時代の作品だから旧かなのはずだが、「日本のうた こころの歌85」は新かなに直して6番まで載せている。
ただ、現代語訳までは書かれていない。だいたいの意味はとれるけれども、正確なところはどうなのだろう? そう思って自分なりに意訳を作ってみた。
「青葉茂れる桜井の」原文と私訳
楠木正成(まさしげ)一行が青葉の茂った桜井の地に来ると、里のあたりは一面夕闇に包まれている。樹の下に馬をつないだ正成は、世の行く末を案じて、しみじみと思いを馳せた。そのとき、正成の鎧の下の袖を濡らしたのは、こぼれ落ちた涙の粒だったろうか、それとも木の葉の露だったか。
注:「茂れ」は4段動詞茂るの已然形、「る」は完了の助動詞りの連体形。「り」はサ変動詞の未然形、4段動詞の已然形に付く
正成は涙を振り払い、我が子正行(まさつら)を呼び寄せてこう言った。父はこれから兵庫へ行き、海に近い戦場で討死するつもりだ。おまえがここまで来たのは立派だった。だがもう十分。おまえは一刻も早く故郷の河内へ帰るのだ。
注:「赴かん」「討死せん」の「ん(む)」は推量か意志か迷うところだが、ここは意志と解した。
「来(き)」はカ変動詞来(く)の連用形、「つれ」は完了の助動詞つの已然形、「ども」は已然形に付く接続助詞
父上がいかに仰せになろうとも、父上を見捨てて自分1人、どうして帰ったりするでしょうか、また自分だけ帰ることができましょうか(できません)。正行はまだ若いかもしれません。でもご一緒したいのです。父上の死出の旅路のお供をさせてください。
注:「いかで……推量」で、どうして……だろうか、いや……でない
「帰ら」は4段動詞帰るの未然形、「れ」は可能の助動詞るの未然形、「ん(む)」は推量
「こそ……已然形」で係り結び。「若けれ」は形容詞若しの已然形
おまえをここから帰すのは、(可哀想だ、我が子を死なせたくないなどの)私情から出たことではない。私は討死するつもりだが、その後はどうなる? 世は(後醍醐天皇に反旗を翻した)足利尊氏の思いのままではないか。おまえは早く大きくなって天皇にお仕え申し上げ、国の為に尽くしてほしい。
注:「帰さん」「為さん」の助動詞「ん(む)」は、意志の意味に解した「ならん」の「ん(む)」は推量でよいと思う
「仕えまつれ」は、仕えまつる(=お仕え申し上げる)の命令形
この短刀は過ぎし年に後醍醐天皇が下さったものだ。今生の別れの形見としておまえに贈ろう。さあ、故郷へ行け、正行よ。年をとったおまえの母がきっと待っていらっしゃるよ。
注:「いに」はナ変動詞去(い)ぬの連用形、「し」は体験過去の助動詞きの連体形
「てん(てむ)」は強い意志を表す。きっと……よう、……してしまう
「まさ」は補助動詞ます(ていらっしゃる、お……になる)の未然形、「ん(む)」は推量の助動詞
父が見送っては子が振り返り、互いに別れを惜しんでいるその折も折、再び雨が降り出した。五月雨の空にホトトギスの鳴く声が聞こえる。ああ、これを哀れと聞かない者がいるだろうか、痛切な、血を吐くように鳴くその声を。
注:「からに」は接続助詞。~するやいなや
「か~ん(む)」は係り結び、末尾は連体形
「聞か」は4段動詞聞くの未然形、「ざら」は助動詞ずの未然形、「ん(む)」は推量
「血に泣く」ホトトギスの鳴き声とは?
ホトトギスは漢字で書くと時鳥だが、子規という表記もある。俳人正岡子規が、結核で血を吐いて苦しむ自分の姿をホトトギスに重ね、「子規」を雅号にしたことはよく知られている。
実際にはどんな鳴き声なんだろう? 気になってYouTubeにあたってみると、いくつかそれらしいのが見つかった。
下の動画を見ると、確かにくちばしの内側が赤い。
ホトトギスってこんな声で鳴くのかと新鮮な驚きがあった。自分では直接聞いたことはないと思う。いや、あったかもしれないが、私の記憶には残っていない。
最後にYouTubeの動画で歌を拝聴。