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新「外見オンチ闘病記」~「顔が変わる」脳腫瘍と40年”お友だち”

”悪友”アクロメガリー

わたし(山中登志子)は、2つの指定難病(アクロメガリー歴40数年、拡張型心筋症5年)患者です。

脳腫瘍と心臓の病のわたしがたどり着いたのは「あきらめない、闘いすぎない」生き方。そんな私流闘病記&終活話 + 両親の介護話を綴っていきます。

アクロメガリーとは・・・

アクロメガリー (Acromegaly)は 「先端巨大症」とも呼ばれ、脳下垂体にできた腫瘍から出る過剰な成長ホルモンが、手、足、鼻 あごなどからだのあちこちを大きく成長させる病気です。ホルモンの司令塔のこの疾患は、頭痛、糖尿病、高血圧、高脂血症、心不全、睡眠時無呼吸症候群、無月経、倦怠感などの合併症や症状を伴います。

勝手にわたしのところにやってきたアクロメガリーのことを”悪友”と呼んで、つきあっています。その”悪友”との出会いの話です。


人生の幕開けは「丙午」

わたしは、基地の街・岩国に1966年(昭和41年)に生まれました。3580グラムと母のお腹から大きく出てきて、5歳上に兄がひとりいます。

1966年丙午年。まだモノクロ写真時代。

生まれたときは髪の毛がなく、つるんとしていて、顔も瞳も父親似。成長するとともに髪の毛はくるんくるんしてきて、天然パーマがとっても目立つ女の子でした。

5歳上の兄と。

はきはき、おてんばな女の子

60年に一度、丙午に生まれた女の子は「気性が激しい」「男を食い殺す」「夫を早死にさせる」と言われ放題でした。はきはきした、おてんばなわたしの個性も「勝気」「気が強い」という言葉に変わって、小学校時代からよく言われてきました。

昭和41年は出生数136万人、出生率(1人の女性が生涯に産む子どもの数)は1・58。

迷信を信じて、せっせと避妊にがんばった成果です。悲しいことに中絶という選択をされた赤ちゃんもいました。1906年(明治39年)生まれの丙午女性の先輩の多くは、結婚もできなかった時代でした。

明治39年後半の出生は男児の割合が非常に高く、明治40年の初めは女児の割合が高くなるなど、出生年のごまかしもされていました。

国も「少子化対策」を掲げて頑張っていますが、2024年の日本人の出生数は70万人を割って68.5万人。合計特殊出生率も1.15を割り込みました。さて、来年やってくる「丙午」はどうなるのでしょう。また迷信に翻弄されるのでしょうか。

「子どもをつくってはいけない」とせっせと「家族計画」にまだ勤しんでいた時代、そんな迷信なんて吹っ飛ばして、避妊もされることもなく、元気にわたしは生まれてきました。

父の教え「自己主張も悪くない」

小学校に入学する前、父が「相手が誰でも、思ったことをきちんと伝えなさい」とわたしに言いました。「自己主張も悪くない」と父から教わったことが、その後の人生を楽しくもさせてくれました。

とはいえ、父は、親にまで思ったことをばんばん言う娘になると思っていなく、それはまったくの想定外だったようです。

人生の幕開けが「丙午」なんて、それも何かの縁です。

丙午は、60個ある干支の中でもっともエネルギーがさかんな干支と言われています。それを両親に話したとき、「だから、その年に産んだ」と父は言い、「でも、ちょっとエネルギーがありすぎ(笑)」と母が言ったことがありました。

16歳までは順風満帆

わたしの人生、おそらく高校1年、16歳までは何もおそれるモノはありませんでした。

順風満帆でした。

小学校3年で学級委員に選ばれたとき、「登志子ちゃんは、かわいいもん」と言われました。クラス替え後すぐ、何も知らない同級生から選ぶ学級委員だから、「そうかな」と思って、ちょっといい気になりました。

翌年は学級委員に選ばれることはなく、「登志子ちゃんは、キツイ」と言われるようになっていました。これも、父のすすめる自己主張の影響もあったはず。

茶瞳をからかわれても気にしない

基地にいちばん近い小学校に通っていました。茶瞳のわたしは「やーい、外人、外人。あいの子」とからかわれることもありましたが、まったく気にしていませんでした。

勉強もでき、スポーツもそこそこ。剣道、ポートボール、バレーボールを元気にやっていました。絵でも賞を何度ももらい、大好きだった「ヘレンケラー」と「織田信長」の読書感想文を書いて、山口県と岩国市から賞をもらったこともあります。習字もうまかった。着物姿でお琴を弾けば注目されました。

小学校卒業の頃、「好きなことば」は「為せば成る 為させねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」と答えていました。

ちょっところんとしていて、太ももがしっかりしている女の子でした。

小学校6年生。身長140センチくらいの頃。

人生に一度はもてるときがある(持論)

広島にアイススケートに行ったとき、黒の革ジャンで決めた知らない男の人がやってきて、靴の紐の結び方から滑り方を手取り足取り一日教えてくれたこともあったし、ハンバーガーショップの店員から「かわいい」と言われて、「これ食べて」と注文していないソフトクリームをもらったこともありました。

ラブレターをはじめてもらったのは中学2年になってすぐ。隣の席の男の子。

かわいいということは得することだと、まわりを見回しながら、そう思って過ごした小学、中学生時代でした。

人生で一度はもてるときがあります(持論)。それが赤ちゃんのときだったら本人も残念ながら気づかず、おじいちゃん、おばあちゃんになってもてることもあるでしょう。

わたしがもてもてだったのは、小学高学年から中学生時代でした。

病気もはしか、風疹にかかったくらいで、ひどい風邪を引いた覚えもありません。わたしは16歳まで元気ではきはきした女の子だったのです。

病気の幕開け、尿にたんぱく

大学2年のお正月(1988年)のことです。21歳でした。

小学校5、6年の担任の先生から年賀状が届きました。〈登志子さんはお茶の水女子大に入学されたと伺いました。才媛才女でとてもきれいな娘さんに成長されたことでしょう。〉とありました。

「いまの登志子を見てほしいね。ほんと、小さいときはかわいかったのに」

父と母はその年賀状を見て、笑いながらわたしにそう皮肉りました。帰省するたびに、母からは「ちょっとは気にしなさい」「運動しなさい」、父からは「小錦に負けてないな」と皮肉っぽく言われていた頃です。

とはいえ、当時の母の日記には、何度も〈ふとっているのが可愛そう。どうにかしてあげたい。〉とあって、わたしのことをかなり心配していました。

女子大1年。ダイエットしてもまったくやせない。
まだ病気のことがわかっていない頃。(1986年)

女子大生、横にも縦にも大きく成長

女子大生のわたしは、身長170センチ、体重は80キロ近くあり、横にも縦にも大きく成長していました。

147・5センチの母から182センチの兄、170センチのわたしが生まれたとは思えないとまわりの人からも言われてきました。父は175センチ。昭和一桁生まれのわりには大きいです。

大学にも無事合格し、合格祈願も必要なくなったので、防府天満宮では「今年こそは元の体型に戻りますように」と2年越しで祈りました。願うはそれだけ。

その前年、1987年の秋のことです。

スポーツセンターで開講しているアクアビクスに興味を持ちました。水中だと重たいからだもラクに動かせてやせそうだと即決。激しい運動なので、健康診断書の提出を求められ、大学の保健管理センターで作成してもらったとき、尿にたんぱくが出ていたので「病院でちゃんと検査してみて」と言われました。

それをそのままにして過ごしていたら、お正月、母から「たんぱくが出てる? 病院にすぐに検査に行きなさい」と怒られました。母は看護婦(当時)。医療従事者である分、そういったことに敏感です。

おしっこを自宅にあった尿検査薬のテスターにつけてみると、やはりたんぱくが出ていました。

すぐに入院して検査しましょう

東京に戻って後期試験、集中講義と続き、春休みの旅行の計画を立てているとあっという間に数週間が過ぎていました。おしっこにたんぱくが出ていることもすっかり忘れていました。

業を煮やした母が「ネフローゼだったら大変。すぐ病院に行きなさい」とものすごく怒って電話をかけてきました。

小学校の同級生がネフローゼになって、中学のときに病院にお見舞いに行ったとき、あんなにころころして元気だった友だちがやせてベッドに横たわっていたことにとても驚いたのを覚えています。

「明日行くから」としぶしぶ返事をして、通学途中にたまたま見かけた病院を受診しました。診てくれたのは清水先生。おじいちゃん先生でした。

問診表を書いて、尿のたんぱくの話をすると清水先生は、わたしのあごにいきなり手をやって上げたり、下げたりしました。

「すぐに、入院して検査しましょう」
「入院……ですか?」
「そう。10日間くらいかな?」
「それって、すぐにですか?」
「春休み、何か予定あるの?」
「……あさってから中国に1カ月ほど行くんです」

すでに旅準備も終わっていて、荷物も詰め終えて、中高校の友だち三人で初の海外旅行に行くことになっていました。そのため旅行資金20数万円を貯めるためにアルバイトもしてきたのです。

「4月に戻ってきたら必ず、すぐに入院しますから」

そのときのわたしは、自分のからだに腫瘍ができていることなど、想像すらしていませんでした。母がうるさいから、検査だけしておけばよいと思っていたのです。

「糖尿病の疑いもあるんだよね」と言われてもそんなおじさん、おばさんがなるような病気もまったくピンときませんでした。

両親は「旅行はまた行ける。旅行はやめなさい」と強く言ってきましたが、「ぜったいやめない。ぜったい行く」と言って、中国に旅立ちました。

中国1カ月の旅

北京から上海行きの列車では、中国人夫妻と男の赤ちゃんが真向かいの席に座ってきました。トイレトレーニングが早くできるように、お尻のところが開いたずぼんを履いていて、あまりにかわいいので写真を何枚も一緒に撮りました。

中国人の赤ちゃんと。1988年3月、21歳。
病気がわかる1カ月前。
かなり顔も変わってあごも出て、手も大きくなっていた頃。

「あなた日本人? とこっちの夫婦が言っているけど」

英語ができる中国人の男性が、わたしに聞いてきました。

「あなたのこと、日本人に見えないって」
「日本人なんだけど」
「ぜったい違うって言っているよ」
「でも、そうなんだけど」

こんな問答が続くので、パスポートの写真を見せましたが、納得してくれません。

パスポートの写真は大学入学のときに撮影したもので、その顔写真を見て、また中国人夫妻は不思議がっていました。  

――大柄だから、日本人に見えないのかな?

中学入学のときは142センチ・36キロ、中2で152センチ・42キロ、中3で162センチ・52キロとどんどんわたしは成長して、高校卒業時には170センチ近くになっていました。体重の増加は振幅が激しくてよく覚えていません。

剣道を習っていた小学生のとき、背の高い対戦相手からねらわれるのはいつもメンばかりで、上から思いっきりバーンと叩かれて、ちびなんて嫌だ、ぜったいに大きくなりたいと思っていたので、中学校でどんどん縦に成長したときはうれしかったのです。でも、願っている以上にわたしは大きく太ってしまいました。

「日本人に見えない」話をしている間、列車はずっと停まっていて、「リーベン、リーベン」と車内放送が何度も聞こえていました。

上海で国際電話をしたら、母からいきなり怒られました。日本では、上海での列車事故がトップニュースでずっと報道されていたのです。

1988年3月24日、そんな大事故に、高知県の修学旅行生が巻き込まれていたことも知らず、後続の列車にゆったり乗っていたのです。帰国後、27名の生徒と教師1名が死亡した大事故だったことを知りました。

「病気のこと、お父さんとも心配しているんだから」という母のことばを聞いて、ちょっとだけ現実にもどりました。

それでも、中国旅行でのわたしは元気でした。80キロ近くあっても万里の長城もどんどん登ったし、よく食べ、よく歩いて旅を満喫したのです。便秘も解消され、中国の戸もないトイレで用を足すことにも慣れました。


万里の長城にて。体重はおそらく人生最大級。

上海の美容院で髪をカットしたら、その後、カーラーを巻かれてお釜みたいな機器に入れられて、なんとも言えない髪型に仕上がっていました。21歳に見えない。からだだけではなく、大きな顔のおばさんが鏡に映っていました。

1カ月の中国の旅を終え、東京に戻った翌日、検査入院したのです。(アクロメガリー「発病編」つづく)


わたしの闘病記を読んでいただき、ありがとうございました。

この闘病記は現在、以下のような構成を考えています。

難病闘病記 ~ 脳腫瘍&心臓病のわたしからぼちぼち「終活」 構成(予定)

Ⅰ 2つの難病患者
(1)「悪友」脳腫瘍~アクロメガリ― 
(2)悪友と生きる、悪友とともに
(3)「新友」心臓病~拡張型心筋症
(4)病気と友だち 病気アラカルト
Ⅱ介護生活 家族の病気
Ⅲおひとりさまの終活 

くわしくは「脳腫瘍で心臓病でも『あきらめない&闘いすぎない』」をご覧ください。

*順不同で書いていきますので、タイトル、通し番号で確認してください。
*自著『外見オンチ闘病記~顔が変わる病「アクロメガリー」』(かもがわ出版、2008年出版)に加筆した記事は無料で、大幅加筆、新記事については有料でお届けします(予定)。
*息切れせず、週1回はアップしたいです(宣言)! 土曜日更新予定。

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山中登志子 / 編集家&美容師(ヘナ染め専門)「顔が変わる」アクロメガリー患者
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