
祖母と母と私の時間
ライターの仕事は、書く仕事だけではなく、祖母と会う機会も与えてくれる。
役場職員時代とは異なり、自分が勤める町のためだけに仕事をすることはなくなった。需要があれば、フットワークさえ軽ければ、全国どこでも仕事ができるようになった。役場時代は隣町でさえ仕事をもらえるはずはなかったけれど、「フリーライター」という立場になり一年半、祖母が住む四万十町との仕事のご縁が続いている。ありがたいことである。
ここ数カ月間は、本の界隈で知り合った方から四万十町での取材の機会をいただいていて、今日もとあるお店への取材予定があった。
フットワークは軽いはずの私だけれど、以前にもnoteに書いたように、これまでは、せっかく移住をして自宅から40分程度の距離に祖母が近づいたのに、会いに行く頻度がとても少なかった。役場時代の忙しさが大きな要因だったのだけれど、役場を辞め、祖母が住む町での仕事をいただけるようになってからは、「それなら取材の前にちょっと寄れるかな」と、取材先から少し足を延ばして彼女に会いに行くようになった。
今日はおまけに、祖母の近所で働く以前お世話になった方へ、注文いただいた本の配達もあったので、もうこれは祖母に会わずに帰る理由がなくなってしまっていた(しまっていたなんて、祖母に失礼な・・・)。
先週、ちょうど祖母から「もうすぐ誕生日やろう。おばあちゃん、なんちゃあプレゼントするもんもないけんど、何か里咲に渡したいきね。近々ちゅ〜っと寄ってよ」と電話がかかってきた。
「ちゅ〜っと」というのは祖母がよく使う言葉で、四万十町の方言なのか、祖母なりの言葉なのか、はたまた古語なのか、その本当はわからないが、彼女の口癖だ。「ちょっと」「まぁパッと」みたいなニュアンスでいつも私なりに解釈している。
ちょうど私も取材と本の配達があるから「まぁ、"ちゅ〜っと"寄ろうかな」と目論んでいたので、そのことを伝えると、「よっし」と祖母は満足して電話を切った。電話を切った後、いつものように洗面台の横にある日付が記されたホワイトボードの10月16日の欄に「里咲(私の名前)」と書いたのだろうなと想像ができた。彼女は昔から几帳面で、家族の予定を忘れることがない。それは私の母も同じで、遺伝なのか、しっかりと親の背中を見て育ったのだろうなぁと感じる。
それから一週間、今日がその取材日だった。
取材の前に本の配達と祖母の家に寄ることを済ませようと思っていたので、まずは本を届け、その後祖母の家に寄った。本を届けた先では、お世話になった方がわざわざおやつも持たせてくれて、「これから祖母の家に行きます」と言ったから、きっと「おばあちゃんと食べてね」と気持ちを込めて渡してくれたのだろうなと思った。心遣いが嬉しかった。
祖母の家は、大体玄関の扉が閉まっていることが基本だが、今日は私が来ることを心待ちにしてくれていたようで、玄関の扉は開きに開き切っていて、その大きく開いた扉が、「里咲はいつ来るろうか」と首を長くして家の中で待つ祖母の姿を想像させた。
「おばあちゃ〜ん」と玄関の外から声をかけながら中に入ると、やっぱり待ちに待ち侘びた祖母がイスに座ってコーヒーを飲んでいて、「今日は午前中の用事を早うに切り上げて帰ってきたで」と話す。祖母のことだから、お昼前には家に帰ってきていただろう。私が到着したのはすでに14時半を過ぎていた。
テーブルの上には「赤飯、ナスのおかず、エリンギ、お茶、きゅうりの酢の物、焼き芋」とチラシの裏に書かれたメモ書き。
「おばあちゃん、いっつも里咲に渡すもの、何かしら忘れるきね。今日は忘れないようにこうしてメモしておいた」と言う。92歳の祖母。記憶も身体もしっかりしている彼女は、ボケ防止のためにメモをしているというよりも、単純に、まめな性格でメモをしている。いつも祖母の家から帰る時、祖母からせっかくもらったものを忘れるのは、どちらかと言えば孫の私なのに。
私もコーヒーを淹れてもらい、祖母とひと通り会話をした後、神奈川にいる私の母に電話をかけ、隣にいる祖母と遠くにいる母と私と、3人で電話で会話をした。「おばあちゃんちに行くよ」と事前に母には伝えていたので、「おばあちゃんち着いた?」という母の言葉から電話の会話は始まった。
それから祖母は、「里咲が来てくれるって言うき、今日は赤飯を炊いて待ちよった」と話す。
「里咲が来てくれて嬉しい」と話す。
「おばあちゃんの8月の誕生日の時にもね、当日は来れん言うちょったに、サプライズで仕事終わりに来てくれてね。それが嬉しくて、おばあちゃん、友だち3人にも話した」と話す。
誕生日でもなんでもない日。私が来るという、それだけのことがめでたくて、嬉しくて、何かのお祝いの日のように赤飯を炊いて待ってくれていた祖母。
「友だち3人にも話した」って、「にも」というほど世間的に多い人数なのかは「?(なぞ)」だけど、祖母にとっては「にも」というほど多い人数に話してくれている認識で、それほどまでに喜んでくれていた祖母。それを誕生日から2カ月が過ぎた今でも話す祖母。
その後も、「この間久しぶりに電話したけんど、私が『またすぐ電話かけてよ』って言うたら、『うん』って言うてくれたもんね」と祖母の願いに対して母が快く返事をしてくれたというエピソードを私に向けて話す祖母。
「うん」
嫌な雰囲気を出さずに言ってくれた母のそのたった一言が、祖母には嬉しかったのである。
祖母が話すこと、喜ぶことは、どれも日常の中の何気ないことで、「そんなことで?」と思う人もいるかもしれないような些細なこと。でも、そんな小さなことの中に幸せを、喜びを見出せるのは、彼女がただ高齢でひとりぼっちの寂しい暮らしをしているからでは絶対なくて、そんなことにも目を向けられる一人の女性だからだと思う。
母と私の2人だけの間では、
「ねぇ、おばあちゃんにまた『ちゅ〜っと来てや』って言われたんだけど。私もそんなに暇じゃないのに、パッと行けないんだけど」(私)
「おばあちゃん、また『ちゅ〜っと』って?もう・・・」(母)
なんて呆れ話をすることもあるのが正直なところなのだけど、92歳の祖母にもまだまだ可愛らしくて、尊敬するところがたくさんある。「日常の中の小さなことに目を向けられる人でありたい」と私が思うのは、全く意識していなかったけれど、祖母の姿を小さい頃から見ていたからなのかな?なんて急に思ったりする。
そして、日々色々なことがあったり、祖母に対して思うことはあるはずでも、祖母の「再々電話をかけてほしい」という要求に、「もう」とか「はいはい」と言わず、「うん」と応えてあげられる母もまた、祖母の娘なんだなと思う。
隣には祖母、電話の向こうには母。
祖母から見れば、隣には孫、電話の向こうには娘。
母から見れば、隣にはいないけど、電話の向こうに母と娘。
私を介して、3人の時間を作れるようになった。祖母と私が同じ場所にいて、そこから母と繋がれるようになった。祖母と母と、こうして触れ合えるようになった。祖母の隣町に越してきて9年目、ようやく祖母孝行ができてきたような気がする。祖母が92歳になってようやく、近くで祖母孝行ができるようになった気がする。そして、親孝行もまた、こうして新しい形に変わって重ねられるようになったのかもしれない。
92歳の祖母と、65歳の母と、31歳の娘の時間。電話を切り、取材先へと向かう私を見送る小さな、小さな祖母の姿がバックミラーに映り、ひとり涙が溢れそうになった。2時間後、取材が終わり帰路に辿り着きホッとした私は車の中で涙が溢れた。
たった10分の3人での電話の時間が、私には尊かった。