「コモンズ思考」を発酵させる
その1. D.グレーバーの遺作"The Dawn of Everything"について
2月12日にFacebookに投稿したD.グレーバー& D.ヴェングロー”The Dawn of Everything”の紹介をnote にも掲載することにしました。
実は、この紹介をより詳しく拡充したものを拙著『コモンズ思考をマッピングする---ポスト資本主義的ガバナンスへ』の補論として収録しました。 ですから、以下は、補論の簡略版ということになります。
(1) 人類史の夜明けの時代についての「新しい歴史の語り方」
デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ヴェングローの大作”The Dawn of Everything---A New History of Humanity”を読みおわりました。
よくまあ、ここまでやってくれたものだという感嘆とともに感謝の気持ちがあふれてきます。(グレーバーはこの原稿が完成して2週間後に他界してしまいました。59歳でした。)
気候変動などによって危機が深まる現代社会の仕組みを、根本的に組み替え直さなくてはいけないのではないか、でもどこから議論をしていけばいいのやらと戸惑っている、若者たちも多いでしょう。この著作は、そういう人たちへの最高の贈り物だと思えます。この本は人類史の夜明けの時期を扱っていますが、未来への自由な想像力を妨げている従来の歴史観を壊すには、この時代についての新たな理解が重要なことがよくわかります。
英語を読むことは苦にならない人も多くなっているでしょうけど、500ページを超える大作にはたじろぐ人が多いかもしれません。グループを作って皆で読むのもいいでしょう。翻訳もそのうち出ると思いのますが、それを待っていると、その間に危機はどんどん深刻化してしまいます。
グレーバーは文化人類学者で、2011年のウォール街占拠運動の中心にいた活動家。代表作の『負債論』は分厚い本なのに、日本でもかなりよく読まれています。ヴェングローは1972年生まれの比較考古学者です。”The Dawn”は、二人の約10年間にわたる共同作業の成果だといいます。
二人が議論を重ねるようになった背景には、トルコのGobekuli Tepe(9000B.C.頃)をはじめ、狩猟・採取・栽培が混在した時期の遺跡発掘から、従来の定説では説明できない発見がこの20-30年の間に各地であい次いでいるのに、それら横断的に解読する大胆な新しい歴史の語り方の提案がどこからも出てこないという状況があります。考古学者たちは、各々の狭い専門分野のことについてしか発言せず、従来の定説は明らかに破綻しているのに、オープンで横断的な議論が乏しい。こういう閉塞状況を突破しようという点で、二人が意気投合したのでしょう。
(2) 北アメリカ先住民のヨーロッパ社会批判と啓蒙思想家
従来の定説的な理論としてよく知られているのは、V.G.チャイルドが提唱した「新石器革命論(農業革命論)」です。メソポタミアの「肥沃な三角形」における農耕の始まり(紀元前1万年-8千年)によって余剰生産力が生まれ、その余剰で暮らす神官や官僚などの支配層が成立し、人口集積によって都市が発生し、「文明」がはじまった、といったストーリーです。
考古学者、歴史家たちに、従来の定説的な歴史の語り方を根本的に覆すことを躊躇させる要因は何なのか? この本のテーマの一つは、それを解明することだと言えます。この本の独特な構成は、こうした問題意識からきていると思われます。
独特な構成というのは、新しい歴史の語り方を探るための原点として、J-J.ルソーをはじめとする18世紀後半の啓蒙思想家たちと北アメリカ先住民の論客の関係を詳しく描いていることです。
北アメリカ先住民の代表的な論客としてKandiaronk(1649-1701)という人物が出てきます。この人はWendatという部族の酋長でした。 5つの部族が連携したイロコイ連合とWendatは対立関係にあり、Kandiaronkはフランスに接近して、状況を有利にしようと試みたようです。Wendatもイロコイ系の言葉を話します。イロコイ系の人たちは、北アメリカ先住民の中でも、深い討議を通じての合意形成をする文化をもち、個々人の自立性と自由を重んじます。
17世紀の時点では、フランス人の宣教師は、先住民を説得して、キリスト教に入信させるために、真剣に先住民の言葉や文化を学ぶ姿勢を持っていたようです。そうしたやりとりの結果、宣教師たちは、イロコイ系の先住民はきわめて自由な人たちで、思考力も本国の人たちよりまさっていると認めています。女性の地位も高く、離婚の自由があることに宣教師は注目し、これは危険なことだと言っています。
なかでも、Kandiaronkは緻密な議論をする能力で頭抜けていたようです。カナダに長く駐在した軍人だったLahontanは、Kandiaronkと親しくなりさまざまなことを自由に議論しました。後に、フランスに帰ってから、カナダに駐在した経験についての本(1703年出版)を執筆し、その中でKandiaronk(本の中では偽名になっている)との対話を詳しく書いています。Kandiaronkは、ヨーロッパ人の暮らしぶりや信仰、考え方をとてもよく理解した上で、ヨーロッパ人の社会より、先住民の社会がはるかにすぐれていて、先住民の方がずっと幸福なことを、きわめて明晰に語っています。
例えば、ヨーロッパの社会では、富を蓄積したものが貧しい者に対して、支配力を振るようになることを強く批判しています。他方、先住民は、自立心が強いので人に命令されたから何かをするということはないので、リーダーは、人々を言葉で説得しなくてはならない。豊かな人は貧しい人を助けるのが当たり前と考えられていると言います。後に、Kandiaronkはフランスに長く滞在していて、さらにフランス社会への批判を深めています。
Lahontanの本は、評判になり、各国語に翻訳されたので、当時の知識人の間で広く読まれていたそうです。そして、絶対王政と教会の権威を批判した啓蒙思想家といわれる人たちは、Kandiaronkをはじめとする北アメリカ先住民のヨーロッパ社会に対する批判から大きな示唆をえています。
ルソーは1754年に「人間不平等起源論」を書き、その後のフランス革命の担い手たちに大きな影響を与えましたが、これより前に書いた論文の注で、アメリカ先住民の考え方から重要なヒントを得たと、ルソーは書いています。「人間不平等起源論」の議論の重要な部分が、Kandiaronkたちのヨーロッパ社会批判をもとに書かれていると、グレーバーたちは判断しています。
ヨーロッパ人と議論したKandiaronkたち意見が、ルソーたちに影響を及ぼし、さらにルソーの著作がフランス革命の担い手たちを動かしたのだといえるようです。そうだとすると、Kandiaronkたちは、ヨーロッパ人との論争に勝ったということもできるでしょう。
しかし、これは話の半分でしかありません。
(3) 啓蒙思想家の発展段階論と先住民像の歪曲
残りの半分は、啓蒙思想家たちによって、北アメリカ先住民像がいかにして歪められてしまったか、ということです。
1703年にLahontanの本が出て評判になってから、絶対王政と教会の権威に批判的な人たちの間で、北アメリカ先住民のヨーロッパ社会批判が広く知られるようになり、好意的な受け止め方をする人も多くなっていきました。
他方で、北アメリカ先住民に批判されて劣等感を感じるだけでは居心地がよくないと感じる人も増えてきます。そこで、北アメリカ先住民の言い分をある程度認めつつ、ヨーロッパ人の優越性を確認するストーリーの中に先住民像を封じ込めてしまう語り方が生まれてきます。
そうした論陣をはった代表的な人物が、A.R.J.Turgot でした。彼の主張では、北アメリカ先住民のような野蛮人が自由で平等な社会で暮らしているのは、彼らが優越している証拠ではなく、彼らが劣っている証拠だということになります。人類社会は、テクノロジーの進化とともに、狩猟民から牧畜民、農民、そして都市的商業文明というように発展の階段を上がっていくとストーリーをTurgotが作りだしました。階段のいちばん下の単純な社会は平等主義的だが、社会が複雑になるとともに、階層化し、不平等が生まれるのは不可避だという主張です。
こうした発展段階論は、啓蒙思想家たちに広く受け入れられただけでなく、その後、さまざまな形の発展段階論が、人類史の語り方の主流になっていきます。
大きな影響力をもつようになったマルクス主義の唯物史観もその変種の一つといえます。
ルソーの「人間不平等起源論」も、北アメリカ先住民から示唆を受けた絶対主義王政や教会の権威への批判という要素とともに、Turgot的な発展段階論によって、「幼稚な野蛮人」として先住民像を歪曲するという要素、そして聖書の楽園追放の神話の語り直しの要素をブレンドして、ヨーロッパ人にとって受け入れやすい味つけのストーリーをつくりあげている、とグレーバーたちは言います。
このように、Kandiaronkたち北アメリカ先住民のヨーロッパ社会への批判に対抗して、劣等感から脱却するために、ヨーロッパ人の優越性を確認できる発展段階論的な歴史の語り方が作りだされ、それが啓蒙思想家とそれ以後のヨーロッパの思考の基本パタンとなっていったわけです。
近年の考古学的な発掘によって、従来の定説的な歴史観では説明がつかない事実がたくさん出てきているにもかかわらず、大胆な新しい歴史の語り方の提案が、歴史家、考古学者から出てこないのは、発展段階論的な語り方を捨てることへの躊躇があるためなのでしょう。
グレーバーたちの本では、近年の考古学的調査と人類学的研究を重ねあわせて、ヨーロッパ、エジプト、メソポタミア、インド、中国、中南米、北米で、狩猟、採集、農耕、漁労、牧畜、手仕事、商業、政治、宗教といった営みを組み合わせた社会の仕組みの模索が、どのような形で起きたのか、たくさんの例について解読作業を行なっています。
そして、さまざまな資料を解読する際に、啓蒙思想家の思考を引き継ぐ欧米の歴史家の視点ではなく、Kandiaronkたち北アメリカ先住民たちの視点をガイドとするという方法をとっています。それによって、発展段階論的な先入観から逃れ、人類史の夜明けの時期の人々の想像力や創意を素直に読みとることができるようになるからです。
(4) 北アメリカ先住民の平等主義的ガバナンスの歴史的背景
”The Dawn”では、冒頭の部分に、北アメリカ先住民のヨーロッパ社会への批判とルソーたち啓蒙思想家の関係についての詳しい記述があり、その後、考古学的資料と文化人類学的研究に基づいて各地の出来事を解読する、たくさんの章が置かれ、結論の手前の章”Full Circle(環を閉じる)”で再び、北アメリカ先住民の話に戻ってくる、という構成になっています。
”Full Circle”という章のねらいは、先住民の自由についての発展段階論的な視点からの解釈に対する実証的な批判を行うことです。 Kandiaronkたち北アメリカ先住民は、とても自由な人たちかもしれないが、それは、農業技術の普及以降の複雑化した社会を知らないからだ、といった理解が誤りであることが、考古学的、人類学的な研究の成果によって、明らかにされます。
北アメリカ先住民たちは、社会経済の仕組みを模索し、紆余曲折を経てきましたが、専制的な支配という点で典型的なものとして、ミシシッピー川の氾濫原にAD 1050-1350年にできたCahokia という国がありました。中国の専制的な王国にも似たトウモロコシ栽培を中心にしたて穀物国家で、最盛期の人口は1万5千人くらいだと言います。貴族階層が平民を支配し、貴族の葬儀の際に、多くの人が神への犠牲として殺されています。
その後の北アメリカ先住民たちには、Cahokiaが力を持った時代の記憶が、きわめ忌まわしいものとして残りました。そして、ヨーロッパ人が出会った時期のイロコイ系をはじめとする北アメリカ先住民の討議を通じた合意形成を重視する考え方は、こうして専制的な支配の時代の反省をもとに、意識的に形づくられたものだったわけです。
(5) 三つの自由
こうした考察を踏まえて、北アメリカ先住民の政治思想の特徴は、「三つの自由」を重視するという点に要約できると、グレーバーたちは言います。第一は「移り住む自由」、第二は「他の人の命令に従わない自由」、第三は「まったく新しい社会的現実を形づくる自由」です(p.503)。
第一の「移り住む自由」とは、具体的には、あるコミュニティの居心地が悪い時、個人あるいは家族がそのコミュニティを去って、別のコミュニティに移ってしまう自由のことです。第一と第二の自由が第三の自由を裏づけるという関係になっています。
こうした「三つの自由」は、北アメリカ先住民の理想というより、かなりの程度で「三つの自由」が現実に機能していたと、グレーバーたちは考えています。
「自由、平等、博愛」というフランス革命の抽象的なスローガンより、「三つの自由」の方が、どういう社会がいいかを議論するすぐれた基準だと、二人は言います。
グレーバーたちは、二人で共同作業をはじめた時に、新しい歴史の語り方として、不平等な社会がいかにして生まれてきたのか、というストーリーを想定してようですが、議論を重ねるうちに、この視点は的確ではないと思うようになり、最終的に、どうして「三つの自由」が疎遠なものになってしまったのかというストーリーになったようです。
というのは、人類史の夜明けの時代の遺跡からの発見の解読を通じて明らかになるのは、人々はかなり程度で「三つの自由」をもっていたらしい、ということだからです。
生き延びる術をあまり持たない太古の時代の人々は、集団に従属して、狭い範囲で暮らしていたと想像しがちですが、遺跡の研究と人類学的研究から明らかになっているのは、時代を遡る程、個人や家族が広域に移動しているということ、共に暮らすコミュニティは、しばしば遺伝的な距離の大きい人たちの集まりだということです。つまり、「三つの自由」のうち、「移り住む自由」を太古の人ほど持っていたと考えられるようになっています。そうすると第二の「服従しない自由」も、確保されやすくなります。
グレーバーたちは、太古の人々が全体的に平等主義的な社会に暮らしていたという見方を否定しています。そうではなく、階層化した社会と分権的な社会など、さまざまな社会が隣り合わせに併存していることが多く、人々がさまざまなタイプの社会を比較できるような条件にある場合が多かったと、多くの遺跡の研究をもとに考えています。
そして、人々はどのような社会がいいか「自覚的な討議(self-conscious arguments)」を重ね、実験をくり返しながら、方向を選択していたと思われる例が多いと言います。つまり、第三の自由を持っている人たちが多かったのではないか、ということになります。
具体的な例で説明しないとリアリティがないですが、それは別の機会にしましょう。