鷗外さんの小倉日記㊲熊本・本妙寺
(九月二十八日のつづき)
寺を出でゝ、熊本城廓を廻りて西に行き、輜重營前なる砂藥師坂を下り、田圃間を過ぎて本妙寺に至る。盖ある車を駐めて錢を乞ふ癈人二三を見る。既にして寺に近づけは、乞兒漸く多く、乞兒中には又癩人最多し。寺は丘上に在り。爪尖あがりの大道ありてこれに通ず。兩邊小寺院多し。大道窮まる處、右方に本堂あり。現にこれを補繕せり。道に接するに石級を以てす。頗る險し。石級に左右中の三あり。その中なるものを登るに、約百六十級あり。半腹の左右に共立難病醫院といふものあり。蓋し治癩院ならん。
宗岳寺を出て熊本城郭を回って西に行き、(第六)輜重兵連隊前の砂薬師坂を下り田んぼの間を行くと本妙寺に至る。途中で幌付きの人力車から物乞いの廃人2,3人を見かけた。ほどなく寺に近づくと乞児(ほかひびと=物乞い)が増えて、その中には、らい病(ハンセン病)が最も多い。
【注】廃人とは傷害や疾病などのため、通常の生活を営むことができない人、です。
本妙寺は丘の上にある。つま先上がりの急坂の大きな道が通じている。この大道の右側に本堂がある。現在、補修中である。
寺は道に石級(石段)で接しており、きわめて険しい。石段は左右中の三つあり、中の石段を上ると160段ある。石段途中の左右に共立難病医院というものがあった。おそらく、らい病(ハンセン病)の治療院だろう。
輜重兵第六連隊は三の丸にありましたが、現在はそこに「旧細川刑部邸」が移築されています。
「砂薬師坂」は熊本博物館の西側にある坂道。加藤清正の熊本城築城の際は井芹川の引き込み水路から資材を陸揚げした河岸に続く坂道として修羅などが往来したといいます。
本妙寺は開創から約400年の歴史を持つ加藤家代々の菩提寺で日蓮宗の名刹(めいさつ)です。1585(天正13)年に、清正が父の菩提寺として大阪に建立したものを、肥後入国後、熊本城内に移し、清正の死去後、さらに現在の中尾山中腹に移建されました。「胸突雁木(むなつきがんぎ)」と呼ばれる急勾配の石段を上ると、清正がまつられている浄池廟(じょうちびょう)に行き着きます。境内には、清正の銅像も建てられています。
加藤清正を祀った本妙寺。なぜここにハンセン病患者が集まったのか。
明治初めには、本妙寺はハンセン病患者が集まる場所としても知られるようになります。加藤清正の死に様に不審があったことから「家康に毒饅頭を食べさせられた」「癩(らい)になって死んだ」などの風説がつくられたことがその理由の一つとされています。
また、本妙寺の清正廟に参拝すると清正の慈しみによって万病が治ると信じられていたため、境内にはたくさんのハンセン病者が住み着いていたのです。
そうして本妙寺の周囲には明治中期から、ハンセン病の患者が生活する集落が形成されていきます。この時期、全国の他の地域でも患者が集まって生活する場所が存在していましたが、特に本妙寺は当時の帝国議会でも言及されるほど多数の患者が集まる場所でした。
熊本に来てその様子を見て驚いたキリスト教宣教師や修道女たちが療養所を相次いで設立しました。ハンナ・リデル、マリー・コール神父の二人です。
ハンナ・リデルはおびただしい数のハンセン病者が社会から見捨てられ、本妙寺にたむろしている姿を目にして、彼らを救済するために立ち上がりました。1895(明治28)年に回春病院、英語で「 Resurrection of Hope」(希望の復活)と名付けた病院を建設しました。
もう一人、本妙寺周辺の悲惨なハンセン病集落の状況に心を痛めたフランス人宣教師、マリー・コール神父は1898(明治31)年、花園村中尾丸に待労院(たいろういん)を設立し、私立病院、私立施療所というかたちでハンセン病患者の救済にあたりました。また、コール神父の要請によって1898(明治31)年、5名の修道女(シスター)が熊本にやってきました。シスターたちは土地の言葉を学び、患者たちの足を洗うことから始めたそうです。1901(明治34)年修道院のある島崎村に待労院が完成しました。
待労院という名は新約聖書マタイ伝からとられています。
待労院資料館「コール館」として今も残っています。
丘頂に至れば廟あり。廟前の額堂には扁額の観るべきものなし。廟後の墓は巨石を樹てたり。題して故肥後守從四位藤原朝臣清正墓と曰ふ。香花極めて盛なり。廟右の石垣内に又一石を立つ。題して朝鮮人金宦墓と日ふ。初め予藪孤山の墓の本妙寺に在るを聞く。これを討めんと欲するに、数多の小寺院各々其墓田ありて、何の處より始むべきを知らず。
試みに廟左林藪中に就いて墓百餘を歴視す。荊刺道を梗ぎて、蚊蝱膚を噬む。日將に暮れんとして獲ず。空しく車を還す。
丘の頂に行けば「浄池廟」がある。廟の前にある額堂には見るべき扁額はない。後ろ側に大きな石が立ててあって「故肥後守従四位藤原朝臣清正墓」と書かれている。夥しい数のお香や花が手向けてある。
廟右の石垣内にまた一つ石が立っている。朝鮮人金宦墓という。
金宦は、文禄・慶長の役の際、加藤清正により、日本に連れて来られた朝鮮人です。
日本に来て清正に仕え、200石を拝領。清正の死後、後を追って殉死し、本妙寺の清正廟の脇に葬られました。
明治維新後、熊本城横に建てられた加藤神社に、祭神として清正とともに祀られています。
はじめ、江戸時代の肥後の儒学者藪弧山(やぶ こざん、1735年~1802年5月)の墓が本妙寺にあると聞いていたので探したが、墓がたくさんあり見つけられなかった。
藪孤山は江戸、京都で遊学した後、熊本藩時習館で教え第2代時習館教授(学長)を務めた人です。
ためしに廟左の林の中の藪で墓100基以上を見て回ったがイバラ道に邪魔され、蚊にも刺されるありさま。日も暮れてしまっても見つからず残念ながら
車で帰った。
※参考 皇居三の丸尚蔵館 しらゆり文庫
大阪文化財ナビ 宗岳寺HP
熊本文学散歩 水前寺古文書の会
国立療養所菊池恵楓園の歴史資料館公式HP
ハンセン病ゆかりの地を訪ねて 九州の正教会ブログ
熊本市観光ガイド 熊本大学付属図書館
浪岡鼕山(とうざん)教室のHP ひじまち観光情報公式サイト
城郭放浪記 (感謝)
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