鷗外さんの「小倉日記」㉕焼き鮎
(八月)
十八日。夜雨曉に至りて歇(や)む。樒を賣る兒童花柴々々と叫びて街を走れり。今日は陰暦の七月十三日にして、盂蘭盆會に當れば、人家買ひて佛に供するなるべし。 朝餐畢れは又雨ふる。雨を冒して登衙す。
午時又歇む。米原氏雅女炙香魚一籠を送り、賀古鶴所葉巻烟草二筐を寄す。米原氏の書に云ふ十七日郷を出で、東京に赴くべしと。 次いで山路の書至る。云ふ、米原氏は女靜と共に我千朶山房に寄寓せんと欲し、米原氏の夫綱善も将に訴訟の事ありて東京に往かんとすと。晩又雨ふる。 夜阪田警軒の訃に接す。余東京を發する前數日、慶應義塾に至り、諸友に告別す。警軒も亦在り。立談して別る。 何ぞ鑑亡の是の如く速なることを圖らんや。 悲しきかな。
陰暦の7月13日に当たる18日は盂蘭盆会、街では「はなしば、はなしば(花柴)買わんか」と大声で叫びながらお盆のお供えにする樒(しきみ)を売る子供たちの声が響いていました。
近在の農家の副業でしょう。
樒は、鑑真和上がもたらしたとか、極楽浄土に咲くといわれる仏様の青い目を象徴する花と尊ばれる青蓮華に似ているなどの理由で、古くから仏教と深く関わりのある植物です。
独特の強い香りで邪気を払い水を浄化し清浄に保つとされ、仏壇のお供えに使われてきました。
「しきみ」「しきび」という名前の由来は、強い毒性を持つので「悪しき実」と呼ばれたことから「しきみ」と呼ぶようになったとか、四季を通して芽を出すことから「四季芽」と言われた、実の形が平たいことから「敷き実」と言われていたなど、諸説あるようです。
同じく枝葉を供える植物で、榊(さかき)がありますが、こちらは、木へんに神と書くところからも分かる通り、神事に使われ、神棚や祭壇・神式のお墓にお供えされます。神事で玉串を捧げますが、その玉串は、榊に木綿や紙の飾りをつけたものです。
「小倉日記」には、毎日の天気について詳しく書かれていますので、明治のこのころの小倉の天気がよくわかります。
8月に入って
1日 夜来雨降る
3日 雨
4日 暑さ甚し
10日 薄暮雨降る
11日 夜雨暁に向かひて霽る。此れより稍ゝ涼し
12日 雨午に至りて歇む
14日 風頗る勁し、午後驟雨一過す。夜に至りて風歇まず
15日 暴風雨
17日 午後雨降る
18日 夜雨曉に至りて歇む
となっており、雨風の日がけっこう多いですね。
鷗外さんが4歳の時、四書の素読を学んだ津和野藩の儒者・米原綱善は当時私書変造行使詐欺未遂事件に巻き込まれ、一審の松江地方裁判所浜田支部、二審の広島控訴院でも敗訴、大審院に控訴していました。
その訴訟の件で娘・静さんとともに鷗外さんの東京の住まいに泊めてほしいとの妻・雅さんの手紙と炙香魚(あぶりあゆ)一籠が送られてきました。
静さんはのちに、鷗外さんの弟・潤三郎さんと結婚します。
「炙香魚」とは焼き鮎のことです。
鮎は古来、日本人に大変好まれた魚、水中の石垢(珪藻・藍藻などの付着藻類)を餌にするために独特の香気があることから「香魚」とも呼ばれます。
津和野から送られてきたのですから、きっと高津川の鮎でしょう。
高津川は、島根県西部を流れる全長81kmの一級河川。広島県境の吉賀町から津和野町日原を経て、益田市の日本海へと注ぎます。
また、国土交通省の水質調査で「清流日本一」に幾度となく選ばれており、一級河川でありながらダムのない、日本では珍しい川です。
高津川の鮎は食通からの評価も高く、その味わいは随一とも言われています。
鷗外さんの東京の家は「千朶山房(せんださんぼう)」と名付けられ、最初の妻・登志子さんと離婚し、二人の弟と明治 23(1890)年 10 月~同 25 (1892)年 1 月まで 1 年余りを過ごした家。
その11年後にはイギリス留学から帰国した夏目漱石が明治 36(1903)年 3 月~同 39(1906)年 9 月まで暮らし、『吾輩は猫である』を執筆して国民的作家となった場所です。
現在は旧居跡地の日本医大同窓会館脇に「夏目漱石旧居跡」(川端康成筆)の碑と猫の像が建てられ、家屋は愛知県犬山市の博物館「明治村」に移築保存されています(東京都文京区向丘2-20-7)。
鷗外さんの生涯の親友、賀古鶴所から葉巻が2箱届きました。
鷗外さんの葉巻好きは有名です。
賀古さんが送ってきた葉巻はおそらく、ハバナの高級葉巻ですが、日ごろはマニラを吸っていたといいます。
夜、坂(阪)田警軒の死去の報がもたらされます。
坂田警軒は岡山県美星町生まれ。江戸に出て安井息軒に学んだ漢学者です。
当時、慶應義塾の講師をしていました。鷗外さんも慶応義塾文学科で顧問をしていましたから親しくしていたようです。
鷗外さんは「小倉に赴任する前、別れの挨拶に慶応義塾を訪れた時、立談したばかりなのに、 何ぞ鑑亡の是の如く速なることを圖らんや」と悲しんでいます。
十九日。密雲四合、時々雨を下す。 午後炎蒸坐甑の如し。 夜に至りて家々燈を張る。盆踊の歌聲枕邊に到る。
二十日。日曜日に丁る。天始て晴る。薄暑雷雨。夜月明。聞く今宵長濱に盆踊ありて夜を徹すと。
小倉男女の高く笑ひ高く歌ひて門を過ぐるもの暁に至るまで絶えず。
19日、厚い雲が覆い時折雨を降らせて、蒸し暑さはまるで、甑(こしき)に座って下から蒸されているようだと、唐の詩人・韓愈の「鄭羣贈簟詩」から引用し、そのさまを「炎蒸坐甑(えんじょうざそう)」と書いています。
さらっと漢学の素養が出るところ所もすごいですね。
夜になって家々では盆の迎え火の提灯を掲げました。遠くから盆踊りの歌声が枕辺に聞こえてきます。
知らない土地で迎えるお盆、なんとなくもの寂しい夜です。
翌20日、晴れ。雷雨もありましたが、夜は月あかりです。
お手伝いさんにでも聞いたのでしょうか、近くの長浜という集落で、盆踊りが夜を徹して行われると。
楽しそうに語らい、大声で歌う地元の男女が門前を通るのが夜明けまで絶えませんでした。
長浜では現在、毎年8月24日、「地蔵盆」が行われますが、このころはどうだったのでしょうか。
「地蔵盆」は、地蔵菩薩の縁日で、厳密には毎月24日ですが、一般的には、その中で特にお盆にも近い旧暦7月24日のものをいうそうです。
主に西日本地域で行われているようです。
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