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祭司ヨヤダ:聖書をめぐる旅 1/21

1/21(金)
 歴代誌下24章は、王位をめぐって目まぐるしい攻防があります。王はその側近によって、右にも左にも向きを変えてしまうことがあることを感じました。詩編131編からは、へりくだりの姿から人の内面を考えてみました。

歴代誌下24章

1ヨアシュは七歳で王となり、四十年間エルサレムで王位にあった。その母は名をツィブヤといい、ベエル・シェバの出身であった。 2ヨアシュは祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行った。
12王とヨヤダは、その献金を主の神殿の工事の担当者たちに渡した。彼らは神殿を修復するために石工と大工を雇い、また神殿を修理するために鉄と青銅の職人を雇った。
17ヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。そのとき、王は彼らの言うことを聞き入れた。 18彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪悪のゆえに、神の怒りがユダとエルサレムに下った。
20神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」


→祭司ヨヤダの働きを見ると130歳まで主のために走り続けた人生だと思いました。奪われた王位を取り戻し、幼い王を補佐して、国を成立させています。そして、献金の仕組みを使って神殿を修復させます。
今日、神殿を整えるとは、キリストの身体であるキリスト者同士の関係を整えることにつながるようにも思います。

 ただ、残念なことに彼の死後、ヨアシュはの高官の口車にのせられ、主の道からそれてしまいます。王位を保つことは、私の想像以上に大変なことなのかもしれません。王の子孫をめぐって、悪魔の強力な攻撃が続いているように思います。
 しかし、なぜヨアシュは、自分を支えてくれた祭司ヨヤダの心に立ち返られなかったのでしょうか?権力は強さもあり、逆に攻撃される弱さもあわせ持つことを思いました。神の子イエスキリストが生まれたが、馬小屋というのも、ある意味神様の守りの中にあったということなのかもしれません。


詩編131編

1【都に上る歌。ダビデの詩。】
主よ、わたしの心は驕っていません。
わたしの目は高くを見ていません。
大き過ぎることを
わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。
2わたしは魂を沈黙させます。
わたしの魂を、幼子のように
母の胸にいる幼子のようにします。
3イスラエルよ、主を待ち望め。
今も、そしてとこしえに。


王であるダビデが神様の前にへりくだっている印象のある詩です。
特徴的な言葉が「わたしは魂を沈黙させます」です。
ここでは、魂があたかもそれ自身の意志で
発言したり、動き回るような表現だと思いました。
人間の中には、霊・魂・体という領域があるといいます。
霊が新しくなっているのに、魂が言うことを聞かないということも
ありそうです。
へりくだりの姿勢の内面には、魂の領域の霊への従順が必要なのでは、と思わされました。

愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、
あなたが、全ての面で恵まれ、健康でありますように祈っています(ヨハネの手紙3 1:2)


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