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まずそれでわたしのために:聖書をめぐる旅 10/30

10/30(土)
神に背く王の時代を経て、エリヤが登場します。「神様から託された言葉」を語る役割のエリアの気持ちを考えてみました。
詩編は、都に神様のご自身が示されるということから、「神殿」のことを考えました 

列王記上17章 

1ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
10彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。
13エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。
15やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。 16主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

→神に背く時代が最も暗くなった時に、預言者エリヤが起こされます。第1節、一住民が王にモノ申すとはすごいことだと思いました。しかも、数年間雨も降らないという禍いの言葉を伝えています。預言者とは神様に託された言葉を伝える役割があるのですね。この国のリーダーのところに、「この先悪くなりますよ」と伝える意味を考えておりました。
 この預言をしてからエリアは、身を隠しカラスに養われ、食べる物に欠く女性に、水と食べ物を恵んでくださいとお願いしています。女は、エリアの言葉に従って、息子たちに食べさせる分の食料を先にエリアに与えます。そうすると、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならないという奇跡が起こります。人間のモノゴトの順番を変えることを、語られているようにも思います。

詩編48章


2大いなる主、限りなく賛美される主。
わたしたちの神の都にある聖なる山は
3高く美しく、全地の喜び。
北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。
4その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。
15この神は世々限りなくわたしたちの神
死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。


王の都の城郭や砦の塔に、神はご自身を示されるとあります。
思わされたのは、黙示録22章で語られる新しいエルサレムが天から降りてくるシーンです。
聖なる都には、神殿がありません。
「万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからです。」(22節)。
かつては神と人が出会う場所として、聖所がありましたが、新しい都では神と人とが常に共にいるので、聖所が必要ないのだと。

死を超えてわたしたちを導かれる神という箇所からは、イエスキリストを連想します。
イエス様も、私自身が「神殿」であることを語られています。神殿が、神様と出会う場所ならイエス様は動く神殿で、革命的な視点だと思いました。

参考:牧師の書斎

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