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【第30回】パブリックフォーラム / 敵対的聴衆の法理 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

パブリック・フォーラム

これまで、19世紀的人権は、国家からの自由、つまり、国家に対して不作為を請求する権利だと説明してきました。しかし、集会の自由などは、厳密に考えると、まず国家に対して給付を求める、サービスの提供を求めておいて、その際に、不当な干渉をするな、と言っている場合があります。

具体的には、集会を行うので公民館などの使用を求めるであるとか、デモ行進を行うので道路の占用を求めるといった場合です。公共の場所、法律的には公の営造物というのですが、それを使わせることを請求しているのですから、憲法的なフィルターで分析すると、公権力に対してサービスの提供を求める、作為を請求するという行為が前提となっています。

これが、民間の会議室であったり、あるいは個人の土地を相手に要求した場合を例に考えると、要求された側で、趣旨に賛同できないことを理由に拒絶したとしても、憲法違反という大げさな話にはなりません。しいて憲法的な視点で理屈をこねると、表現の自由に対して、所有権に基づく財産管理権を主張しているとも言えますし、私人間の問題なので、私的自治の原則の世界の話だから、交渉で何とかしてねという話であるといえなくもありません。

公の営造物の利用についても、あくまでもサービスの提供にすぎないといって、使用させるか、させないかを公権力が自由に判断できるのだとすると、政府批判のような気にいらない表現にはサービス提供を拒否し、「総理頑張れ」のような都合の良い内容、あたりさわりのない内容のものについてはサービス提供を行うことにもなりかねません。こうなってしまうと、まさに表現の自由の行使を邪魔する、実質的に表現の自由に対する抑制ともなりえます。

ところで、公権力に対して作為を請求するといっても、生存権の場合のように、生活保護基準をどの程度のものと定めるかという幅のある問題とはちがい、使用させるか、使用させないかの二者択一で、給付内容は一義的に決まっています。

アメリカの判例では、公園や公道などは伝統的な「パブリック・フォーラム」であるとして、そこでは表現の自由の保障に可能な限り配慮すべきであるとされてきました。具体的には、表現内容に着目した規制にいては「やむにやまれざる政府利益」がある場合に限って認められるという厳格な審査基準が適用され、内容中立的な規制については「重大な政府利益に仕えるよう限定的な規制となっているか」によって判断すべきという中間的な基準で違憲審査を行うべきというものです。

アメリカの判例理論なので、翻訳調になってしまって分かりづらいかもしれませんが、ざっくり言えば、厳密にいえば給付請求だけれども、パブリック・フォーラムの場合には表現の自由でこれまで検討してきた違憲審査基準、内容規制なのか、内容中立的な規制なのかという考え方がおおむね当てはまる、と理解していただければと思います。

あいちトリエンナーレ

2019年、愛知県で行われた国際芸術祭である、「あいちトリエンナーレ2019」の企画として開催されていた、「表現の不自由展・その後」に対して、いわゆる「慰安婦」問題や天皇制などを題材とした作品が含まれていると主張して、メールや電話で多数の抗議、「電凸」などと呼ばれるようなことが行われ、中にはテロ予告や脅迫もあったそうです。このような度を越えた妨害活動―内容いかんによっては刑法222条の脅迫罪などの犯罪に当たる場合もあります―によってわずか3日で展示の中止に追い込まれました。この事件はその後、限定的な展示の再開、「あいちトリエンナーレ展2019」に対する補助金の全額不交付、のちに減額交付など、紆余曲折しながら展開することになります。

ところで、この件に関しては、「税金を使ってこんな作品を展示させるのはおかしい」という意見がありました。これはむしろ逆ではないでしょうか。

生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。

刑法222条第1項

民間の美術館であれば、美術館設立の趣旨に反するであるとか、オーナーのポリシーに反するなどの理由で展示が断られることはあるかもしれません。むしろ、公の施設ほど、多様な作品、多様な考え方について発表の機会を確保すべきはずです。税金を使っていることを理由に、不愉快な表現であるとか、多数意見と異なるといって、それを排除することは明確に間違いだと考えます。

税金を使っているのだから口が出せるはずだ」という理屈がまかり通るのだとしたら、政府に批判的な研究を行っている学校に私学助成金を出さないようにできることになりますが、これは許されないというべきでしょう。
パブリック・フォーラム論との関係でいえば、たとえば道路整備にも税金が使われているからとか、公的施設は税金で造ったのだから、という理由はデモを規制したり、集会を禁じる理由としてはいけないということです。

上尾市福祉会館訴訟

さて、もともとはLRA基準の具体化としての敵対的聴衆の法理を検討しましょうということでした。具体的に問題となった事案はどのようなものだったのでしょうか。

何者かに殺害された労働組合幹部の合同葬を上尾市の福祉会館で行おうとして、使用許可を求めたことに端を発しています。上尾市は、これは内ゲバによる殺人事件の可能性があって、そうするとこの葬儀に対する抗議や妨害などによる混乱のおそれがあると考えました。上尾市の条例には、「会館の管理上支障があるとき」には使用を許可しないことができるという規定があったことから、不許可処分としたものです。

この不許可処分の適法性が、最高裁まで争われ、違法な不許可処分であるという判決が出されました。妨害による混乱を理由に公の施設の使用を拒否できるのは、「警察の警備等によってもなお混乱を防止できない特別の事情がある場合に限られる」というのが理由です(最判平8.3.15)。

実はこの判決が出る前年、泉佐野市での市民会館の使用拒否が問題となった事件で、最高裁は、反対の結論を出しています(最判平7.3.7)。泉佐野市のケースでは、敵対的聴衆の法理について触れたうえで、使用による危険を「警察に依頼するなどしてあらかじめ防止することは不可能に近かった」ことを理由としています。

一般論と具体的事案におけるあてはめ

この、敵対的聴衆の法理は、表現主体に対して妨害する者がいるからといって、適切に表現の自由を行使している者が不利益を被ることは不当だ、という考え方に根差しています。むしろ、妨害しようとする者に対しては、警察力によって排除することによって、表現の自由を確保すべきだというものです。

上尾市の事件で最高裁は、憲法違反、という判断をしたわけではありませんが、この敵対的聴衆の法理は、表現の自由という観点から見た場合、会館の使用の不許可よりも、より制限的でない他の選びうる警察による警備によるべきというふうに読み取ることも可能です。LRAの基準について、正面からではありませんが、学説の主張について取り入れ始めたものではないかと注目されます。

また、わずか1年の違いで同じ理論に基づきながら、反対の結論が出たことも大事なところです。以前、税関検査事件において、「風俗を害すべき書籍、図画」の解釈と、あてはめが合致していないのではないかと指摘しました。

憲法裁判を検討するにあたっては、一般論のところも大事ですが、それが具体的事件でどのように解決されるか、ということも同様に大事なポイントです。泉佐野市の事件と上尾市の事件での違いは、警察の警備で混乱を防止できるかどうかということが結論を分けたということができます。


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