【第53回】改めて表現の自由とは何を保障しているのか⑥ 知る権利(わき道にそれて犯罪報道について①) #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話
1980年代のできごと
1970年1月、神戸弁護士会が日本弁護士連合会(日弁連)に、マスメディアの犯罪報道が公判の審理より、捜査の段階に重点が置かれていて、しかも、興味本位かつ断定的で、被疑者は起訴前に悪人のレッテルを貼られ、社会的には有罪と断定されているに等しいとして、この問題について調査研究してほしい、という提案を行いました。
日弁連の調査では、犯罪として報道されても、起訴までたどり着いたのは3分の1に満たなかったり、起訴された事件でも報道された事実とは異なる事実について処罰されたものが多いことが明らかになったのです。
こうした流れの中で、1980年代、元記者の浅野健一さんによる『犯罪報道の犯罪』という問題提起がありました。神戸弁護士会の問題提起から10年が経過していましたが、依然として、容疑者逮捕のニュースの際には実名で呼び捨てにされ、ワイドショーではプライバシーにわたることが面白おかしく報じられたりしていました。刑事裁判の前に容疑者を犯人扱いするような報道したら、イギリスでは法廷侮辱罪にあたることが横行しているではないかというのです。また、写真週刊誌全盛の時代で、怒ったタレントさんが雑誌社を襲撃するという事件も起きた、そんな時代でした。
報道の自由を振りかざしていたマスメディアもさすがに目を覚ましたのが松本サリン事件ではないでしょうか。この事件で参考人として警察に聴取を受けた男性について、各メディアは、農薬の調合を趣味としていたとか、この調合の過程でサリンが生成されたのではないかなど、「犯人と断定はしていない」なんて、言い訳でしょ、としか言いようのない報道が相次ぎました。大冤罪報道合戦だったといっても過言ではありませたん。
このような事態を経て、メディア内部でも議論があり、プライバシーにかかわる認識などについても深められたのではないかと思います。メディアによるあまりにどぎついプライバシー侵害と思われるような事象は当時に比べれば減少したといえます。それに伴って、写真週刊誌も衰退しました。
しかし、犯罪報道については、呼び捨てから、「容疑者」という呼称に代わったくらいで、大山鳴動して鼠一匹という印象です。日本でも裁判員制度が始まったにも関わらず、です。
表現の自由の問題として考えても、犯罪報道の場合、無罪推定を受けるべき被告人の利益を侵害しています。その人が真犯人であるどうかということは法廷で明らかにされるべきことで、思想の自由市場で決すべきことではないと思われます。あしながおじさんが誰かということと並んで、市場適格性のない類型と言ってもいいかもしれません。
2000年代に入って
私は、2000年の総選挙で初めて国会で仕事をするようになりましたが、その当時、「犯罪被害者の人権」に光が当たっていました。
議員立法で、犯罪被害者基本法や、危険運転致死傷罪の創設などにかかわる法案を提出したのもこのころです。
当時のメディアの論調は、加害者の人権ばかり保障されていて、被害者の人権が放置されているというようなものでした。これも、フレーズとしてはわかりやすいですが、このシリーズにお付き合いいただいたみなさんならおわかりいただけるかと思いますが、刑事手続上の人権というのは、「加害者」かどうかの認定にかかわるものですから、加害者の人権という言い方はいかがなものかと思いますし、そもそもそれほど立派に保障されているといえるものかは疑わしい気がしています。
ただし、犯罪被害者の権利保障については、現在と比べて貧弱であったのも事実です。犯罪の被害者にあわれた方の警察における心理的なケアであるとか、犯罪被害者給付金も、あくまでも「お見舞金」ですからということできわめて低額でした。
応報感情からすれば、理解できなくはないのですが、被疑者・被告人の人権のラインは維持したうえで、被害者の問題に向き合うのが本来あるべきと思うのですが、どうしても刑事被告人の人権保障が手厚すぎるのだという方向に行きがちでした。
少年法改正をめぐって
2020年の少年法改正についても、似たような問題があったように思えてなりません。
少年犯罪の被害者の方々から、被害者は報道にさらされるのに、加害少年は実名で報じられないのはおかしいではないか、という声が上がり、推知報道、推認の推に、知ると書いて推知です、つまり加害少年がだれであるかを推認できる報道が緩和されました。
私は、これは逆ではないかというスタンスで対政府質疑を行いました。少年の名前が実名で報道されないことがけしからんとして、推知報道を緩和するのではなく、被害者についても、原則匿名としてうえで、個々の同意がなければ報じられないようにするという方向のほうが適切なのではないかと思います。
報道の自由と「知る権利」の重要性を強調しておきながら、方向性が違うではないかと思われる向きもあるかもしれません。わき道にそれたついでに、少し掘り下げてみたいと思います。