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【第56回】改めて表現の自由とは何を保障しているのか⑨ 知る権利(わき道にそれて犯罪報道について④犯罪の前科について) #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

これも数字のマジック?

日本の有罪率が高い、ということは結構多くの人が知っています。しかしこれは、刑事事件として起訴されたケースについて、有罪になる率がきわめて高いことを意味しているにすぎません。逮捕されてから検察に送られ、検察で起訴すべきと判断する、というプロセスがありますから、実は、逮捕されたからといって、有罪判決までに至る率という観点で見た場合、おそらく一般の人々の印象よりはぐっと下がるはずです。

これまでも、新聞の縮刷版など、一度報じられたものは半永久的に保存されていたといえます。しかし、ネット社会になり、より簡易に閲覧可能な形で逮捕歴、前科などが公表される時代となりました。「忘れられる権利」が議論になっているのは、このような時代の変化によるものです。

犯罪の被害者を減らすために

罪を憎んで人を憎まずということわざがありますが、まあ、普通はそんな心境になれないからこそことわざがあるのかもしれません。

犯罪を犯してしまった人の側の立場に立つということは、選挙を経なければならない政治家には難しいことのようにも思えます。しかし、その目的は、犯罪の原因をいかに除去するか、ということにあります。

犯罪の原因を除去する、といった場合、たとえば、夜の道に街灯をつけて明るくすることも含まれます。ただ、ここで問題としたいのは、一度犯罪を犯してしまった人が、再び犯罪を犯す可能性をできるだけ低くするためにはどうしたらよいのか、ということです。犯罪被害者を減らすために、どのような政策が必要か、と言い換えることができるかもしれません。

前科者というレッテルが張られることによって、事実上社会復帰が困難になることは否めませんし、それを乗り越えてもらうこともある意味贖罪なのかもしれません。しかし、そのハードルが高すぎると、乗り越えることができずに、再犯の道に進んでしまうことになりかねません。どうしても罪も憎んで、人も憎む気持ちが強いと、だから厳罰を、という話になりがちですが、刑期が長いほど、社会復帰が困難になり、結果、再犯率が上がるというジレンマがあります。難しいことかもしれませんが、素朴な感情で厳罰を訴えると、結果として被害者を増やしてしまうおそれがあることに思いをいたしていただきたいと思います。

刑事政策という観点から考えると、受刑者には二度とここには戻ってこないという更生プログラムをできるだけ短い期間で刑務所が提供することが重要です。犯罪の性質や軽重、犯罪者の個々の事情などの中から、刑期については最適解が定まると考えられます。

ビブリア

2013年にドラマ化された小説、『ビブリア古書道の事件手帳』という小説の中にも、前科を犯して平穏な生活をしていた人の話が描かれています。★この小説のケースでは、ビブリア古書道に文庫本の査定を依頼した「坂口昌志」は、妻「しのぶ」に前科が知られても、愛は変わらなかった、というハッピーエンドで、私も好きな物語なのですが、世の中、こうであってほしいという思いが、物語が支持される一つの理由のように思えます。

一度道を踏み外して、その後更生し、今は立派な活動をしている、ということを公表している人は世間でも評価の対象とされますが、そのような評価を得ることなく、普通に生活している人の方が圧倒的に多いはずです。ところが、SNSで前科などがさらされたり、あるいは有罪判決までに至っていない、逮捕されたという事実がさらされることによって、社会生活が困難になることは容易に想像できます。仕事を失ったり、あるいは再就職が困難になることによって、再び犯罪の道へ、ということは、身から出た錆と批判することは簡単ですが、新たな被害者生むことになる可能性も併せて認識しなければいけないことです。

一度犯した罪について、一生十字架を背負って生きていくということは、倫理的にはあるのかもしれませんが、法的には、刑罰を受けたことによってけじめはついているはずです。「前科がある」ということをもってそれ以上の社会的な制裁を受けて、それが原因で、新たな被害者を作ってしまうことは、私には不必要なことに思えますし、その原因は除去することは政策的課題だと考えます。

前科を秘匿することは人権問題なのか?

そうだとした場合、前科があることの情報提供など、他人が明らかにすることは、表現行為です。これを制限することがあり得るとすると、前科を秘匿したいということが人権である必要がありそうです。

最高裁は、いわゆる前科照会事件において、「前科及び犯罪履歴(以下、『前科等』という。)は人の名誉、信用に直接かかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有する」としています(最判昭56.4.14)。伊藤正己裁判官の補足意見では、「前科等は、個人のプライバシーのうちでもっとも他人に知られたくないものの一つ」と、プライバシー権に該当すると述べられています。

伊藤正己裁判官は、憲法研究者としては日本にプライバシーの権利を紹介した一人ですから、その頭の中には、米国でのプライバシー権の研究の第一人者であったプロッサー教授のプライバシー侵害の4類型があったのかもしれません。その一つの「私生活の公表」の例として、メルビン事件があります(Melvin v. Reid, 1931)。裁判の結果は無罪であったので、前科そのものではないのですが、殺人事件に関係した経歴(前科「等」)の公表について、「原告が悔い改めた後において、その過去における芳しくないできごとを使用して公表」することは「われわれのもつ道徳や倫理のいかなる基準によっても正当視されない」としたアメリカの判例があります。


犯罪の前科に関する事柄は、私的な生活空間の問題ではなく、公的な事柄といえますから、「私生活をみだりに公表されない権利」という伝統的な意味でのプライバシーではなく、現代的に自己情報コントロール権と考えたときの「自己情報」にあたるとする学説が有力です。

事件名からも、これは、公的機関が前科の照会、つまり問い合わせに対して、みだりに答えてはいけない、というものですが、さらに1歩進めて、公表されているものを非公表とすることを求めることができるか、ということが次に問題となります。

★三上延著『ビブリア古書道の事件手帳~栞子さんと奇妙な客人たち~』第3話「ヴィノグラードフ クジミン『論理学入門』」(2011年・メディアワークス文庫)

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