第20回 事前抑制の原則的禁止の法理 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話
検閲・事前抑制
検閲は「絶対的」に禁止される、それが第21条の第2項の意味するところだというのが判例で、検閲概念については問題があるとしても、学説の多くも一般論としては同様に考えています。
第2項が存在しなかったとしても、そもそも第1項で表現の自由が保障されている以上、表現行為を事前に抑制することは「原則的」に禁止されている、と考えられます。これを「事前抑制の原則的禁止の法理」と言います。いわば、第1項での原則的な禁止が大きな円で、その円のなかに、第2項の絶対的禁止が小さな円として存在している、という感じでしょうか。
具体的には、①表現行為がなされるに先立って公権力(←行政権に限られない)が何らかの方法で抑制すること、②実質的にこれと同視できるような影響を表現行為に及ぼす規制方法は原則的に禁止される、というものです。
表現の自由が保障されているということは、公権力が、あらかじめ、このような表現をすることはまかりならぬとすることはだめで、もし、その表現が他人を傷つけるなど、人権相互の調整が必要だ、ということであれば事後的に、具体的に裁判などで判断すべき、ということを意味しているはずだからです。
明白かつ現在の危険?
たとえば、「殺してしまえ」というセリフは穏やかではありませんが、事前にこのような内容の表現は禁止するのだ、ということは適切ではありません。
プロレスやボクシングなどの観戦などで興奮して「殺っちまえ」と叫んだ場合、ひらがなでは「やっちまえ」ですが、本気と書いてマジと読むみたいに、殺せという意味で言ったとして、「お前、穏やかじゃないな」と言われることはあるかもしれませんが、処罰すべきと考える人はまずいないでしょう。
これに対して、「いってこい」と言っただけであったとしても、アメフトでパスを投げ終えた後のクオーターバックに激しいタックルをした場合、暴行あるいは傷害の教唆犯が成立することはあり得ます。
この2つの事例の対比からも、表現の内容そのものだけで事前に規制することは不適切であること、他者との調整は具体的状況に応じて、事後的に判断することが必要だということです。かつては「明白かつ現在の危険」があるか、どうかという形で説明されていたことかもしれません。
許可制・届出制
事前抑制の原則的禁止については、どのような場合が例外となるかについて、いろいろなバリエーションがありうます。
行政権との関係では、デモ行進や集会について、事前に都道府県警察の「許可」を受けなければならないとしている条例があります。このようなケースについて「検閲」というのは語感の上でもちょっと違う気がしますし、文書による表現以上に、公園や道路を使用するとなれば他者との関係での調整が必要となります。
しかし、「許可」というのは、その行為について禁止しているものを、行政が解除してあげる、というものですから、そもそも許可の対象となる表現行為は禁じられている、その点がけしからんのだ、とも評価できます。ここが法律の理屈っぽいところなのですが、行為者からすれば似たようなことをやらされるのですが、届け出制ならいいのではないかと考えられています。
許可制が、禁止しているものを解除するものであるのに対して、典型的な届け出制、つまり機械的に受け付けるものであれば、恣意的な行政裁量の働く余地はありません。もともと禁止しているわけでもありませんし、届け出てもらえれば、場合によっては警備などもしますよ、ということでしょうから、例外として認めてよいのではないかというのです。
裁判所による差し止め
検閲の場合には、主体は行政権とされていましたが、たとえば、裁判所による差止なども、あまりにも広汎なものとなってしまうと、表現の自由に対する脅威となりかねません。アメリカの判例では、裁判所との関係が問題となったものも少なくありません。
裁判所との関係では、名誉権やプライバシー権に基づく出版物の差止が一定の要件の下で認められる場合があります。この場合、差止を請求しているのは民間人かもしれませんが、もし差し止めを命じる、ということになるとその主体は裁判所(司法権)という公権力ということになります。この場合、差止が認められる「一定の要件」は、対立利益としてどのような人権が問題となるかによって異なってきます。