【第4回】ピンポイントで世界史のおさらい #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話
憲法が制定されるとき
私たちが「憲法」と称するルール、法規範を制定することがブームになったのは、19世紀のことです。この時代を「憲法の世紀」という学者もいます。なぜこの時代にそのようなことになったのか、それは18世紀後半の歴史的な事情があります。
フランス人権宣言やアメリカ合衆国憲法が採択されたのがこの時期ですが、きっかけは市民革命や独立革命という壮絶な背景がありました。理論的にはロックやルソー、モンテスキューという啓蒙思想が影響を与えています。
歴史の教科書的には、中世の封建社会・絶対君主の時代から、近代市民社会へ移行した時代です。封建社会・絶対君主の時代を否定してフランス市民革命が起きたわけで、当時の啓蒙思想家たちは、何を否定し、何を求めていたのかということは、旧体制(アンシャン・レジーム)がどんなものであったのか、また、アメリカがなぜイギリスから独立しようとしたのか、歴史の教科書からひも解いてみたいと思います。
歴史の教科書から①(フランス)
フランスでは、「朕は国家なり」という言葉が印象的なルイ14世が17世紀後半から絶対王政の頂点に立ったと世界史の教科書には書かれています。王の権力は神から授かったとする「王権神授説」を背景にして、国内の貴族や外国の教皇に従う必要はないのだとして、専制政治を行いました。18世紀はまさにこの旧体制が続いた時代で、身分制度もはっきりとしていました。第一身分は聖職者、第二身分は貴族で、免税などの特権を持つ封建領主でした。平民は第三身分とされ、農民は領主への貢納、日本でいう年貢のようなものでしょうか、それと、国家に対する税を負担していました。バスティーユ牢獄が圧政の象徴とされていたことからも、刑罰が恣意的で過酷なものであったことがうかがわれます。
おおざっぱですが、フランス革命がアンシャン・レジームとして忌み嫌ったのは、絶対君主による封建的支配、つまり人の支配であり、税徴収の不公平や刑罰の恣意性・過酷性だったということができます。
歴史の教科書から②(アメリカ)
アメリカが、もともとイギリスの植民地だったのは有名な話です。イギリスでは、17世紀にピューリタン革命(イギリス革命)や名誉革命(無血革命)を経ていましたから、王政でありながらも議会主権やプロテスタントの信教の自由が確認された立憲君主制の国でした。ですから、独立革命のきっかけは別のところにあるようです。
イギリスとフランスの間では、植民地争奪戦が長い間続き、1689年から1815年まで、第2次百年戦争とよばれる軋轢がありました。1756年から1763年の7年戦争によってイギリスの優位が明らかになったと評価されているのですが、イギリスはこの7年戦争の後も植民地に対して次々に新しい税金を課しました。これに対して植民地の人々が「代表なくして課税なし」という標語でこの撤廃闘争をしたことは有名です。
さらに、「ボストン茶会事件」が起こります。東インド会社、これ世界で最初の会社なんですけど、ここにイギリスがお茶の独占販売をさせて、このお茶にも関税がかけられていました。本国製品の不買運動も起きている中、マサチューセッツ植民地の人々がボストン港で東インド会社の船を襲う事件がありました。「ボストン港をティーポットにする」と叫びながら342個の茶箱を投げ捨てたことからボストンティーパーティー事件といわれています。
これに対してイギリス政府が厳しい処罰をしたことから、植民地の人々は怒りました。13の植民地の代表が大同団結して大陸会議を開き、本国イギリスに抗議をします。
このようなことをきっかけにして、イギリス軍と植民地民兵との衝突、レキシントン・コンコードの戦いが始まり、1776年7月4日の独立宣言に至るわけです。
フランスとは事情が異なりますが、背景に啓蒙思想があったことは共通しています。そして、独立戦争を戦ったのは地主や商工業者・農民・都市の民衆でした。このように身分を超えて共和国を建国した初めての近代革命であるといわれます。