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【第67回】私人間効力~アクセス権③ #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

不法行為が成立している場合

名誉毀損に基づく不法行為が成立している場合に、民法723条の適当な処分として、謝罪広告の掲載を裁判所が命じるということがかなり古くから行われてきました。これはアクセス権の問題としてではなく、思想・良心の自由の侵害ではないかという形で争われました。昭和31年の最高裁判決(最大判昭31.7.4)ですから、まだアクセス権という考え方もなかったのかもしれません。

どんな事件か

これは、衆議院議員選挙に際して、対立候補があっせん収賄を行ったと政見放送や新聞で公表した行為に対して、名誉毀損の成立を認め、裁判所が民法723条にいう適当な処分として「右放送及び記事は真実に相違して居り、貴下の名誉を傷けご迷惑をおかけしました。ここに陳謝の意を表します」とする文面の謝罪広告を命じる判決を出しました。

これに対して、現在でも演説の内容は真実と思っており、全然意図しないことを自分の名義で新聞に掲載することを強制するのは憲法第19条の思想・良心の自由に反する、という形で争われたものです。

最高裁でも判断が分かれた

この事件に対する判決で、最高裁では多数意見と反対意見に分かれました。正確に紹介しようとすると、この判決の執行方法など、技術的な問題についての論理にかなりの議論のボリュームを割いていますから、かなりわかりにくいものと思われます。そこで、思想・良心の自由の保障の意義との論理的な関係から読み解いてみたいと思います。

憲法第19条の思想・良心の自由の保障の範囲については、信仰に準じるような世界観や人生観などの、人の人格形成の核心をなすべきものに限られるのだ、という説(信条説)と、人の内心におけるものの見方、考え方一般まで含める説(内心説)があります。前者の方が狭く、後者の方が広いということが言えます。

これまで見てきたように、禁止されていないことによる反射的利益ではなくて、「人権」として保障される以上は、一定の内容、つまり人権としてふさわしい重みが必要だとも考えられます。取材源の秘匿問題で検討したように、あるカテゴリーの内容については、職種によって証言拒否が認められていますが、これは原則に対する例外です。つまり、国民は、裁判に際して裁判所から呼び出されたら、原則として、出頭して証言する義務があるのですが、これが憲法違反になってしまうおそれがある、というのが信条説の根拠と考えられます。

これに対して、そもそも人の精神活動についてそのような限定は可能なのか、また、証言強制の問題についても、他者の人権との調整(ここでは裁判を受ける権利になるのではないかと思われます)ということで説明ができるのではないか、というのが内心説の根拠と考えられます。

最高裁の多数意見は、信条説に親和的です。謝罪広告は「単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のもの」としてこれを命じることも憲法違反ではないとしました。

これに対して、反対意見は、「是非弁別の内心的自由」や「是非弁別の判断に関する事項」を外部に表明する自由・しない自由(沈黙の自由)を侵害し、憲法違反であるとしました。

どのように考えるべきか

信条説のメリットは、保障の範囲を限定することによって、その制約は絶対にできないのだ、例外は認めないという理論構成ができることです。内心一般に広げてしまうと、憲法第19条に関しても、例外的に制約があることを認めなければならなくなってしまうではないかというのです。

しかし、客観的事実に反していた、というところまではともかく、「謝罪」「陳謝」ということはかなり倫理的な価値観にかかわるものと考えられますから、人格形成の核心の対象外である、思想・良心の自由で保障される事柄ではない、というのは私には違和感があります。

仮に、思想・良心の自由を侵害するものではないとしても、信条説に立てば、そこから漏れた内心の精神活動を外部に表明させられることについては、憲法第21条の表現の自由の制約、21条で保障される沈黙の自由の制約ということになるはずです。

名誉毀損に対する救済方法としては、本人名義で、謝罪広告を出させるのではなく、裁判所の名義で、「放送及び記事が客観的事実関係と異なるものという判決を出しました」という広告を出すことも考えられます。

日本国憲法の母法が米国憲法であることから、これまでアメリカの議論や判例などを参考としてきました。しかし、日本の民法は、ドイツ民法を模範として作られているものです。そして、ドイツ民法では、名誉毀損に対する救済は「謝罪広告」ではなく、名誉等を侵害した言説の取消しや、裁判所による名誉宣言という方法によっています。フランスでは、反論権法があるだけでなく、民法においても、新聞による取消広告や、被害者勝訴の判決の広告などという方法がとられています。

そうだとすると、「陳謝」「謝罪」といった倫理的な内容を含む広告を命じるよりも、「より制限的でない他の選びうる手段」があると考えられますので、私は憲法違反と言ってもいいのではないかと考えています。

昭和31年という古い時代の判例ですから、その後の憲法の理論の展開から見ると、検討が不十分な印象を受けます。さらに、アクセス権の問題として考えた場合、名誉権を侵害したとされる者の名義による謝罪ではなく、名誉権の侵害を受けた者の名義によって、反論なり、訂正記事を掲載することはできるのか、ということが次に問題となります。

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